触れる
森の中に、沼があった。誤って踏み外し、沼に足を取られれば沈んでいくのを覚悟するのみである。毒性の底なし沼であった。
ある晴れた日、木漏れ日が心地よく揺れる森で男が狩りをしていた。数日にかけて獲物ひとつ見つけることができなかった男は、ようやく見かけた兎を逃すまいと懸命に追いかけた。しかし、獲物に夢中になるあまり足元を疎かにし、男は転げることとなった。転げた先が運悪く、死の沼であった。
男は沼に頭から突っ込み、足を忙しなく動かす。しかし、次第に両足ともに力なく動かなくなってしまった。動かぬ男の体はゆっくりと飲み込まれてゆき、陽が沈む頃には完全に見えなくなっていた。
再び森に光がさす頃、男の意識は沼のすぐそばで目覚めた。男にとって、明確に沼に落ちた記憶と今確かに見ている森の景色どちらもが現実のものであった。
木漏れ日の微かな日差しが酷く熱く感じた。肌が勢いよく乾いていく感覚が男を襲う。木陰に逃げようとして立ち上がった時、男は立ち止まりその場から動くことができなかった。
男の両の手から滴る真っ黒な泥をただ眺めていた。そうして泥に塗れた腕を見て、胸を見て、どことなく黒く霞んだ視界が、男の思考を奪った。男の上半身ほとんどすべてが泥に塗れていた。
必死に泥を振り払おうとして、泥の手を振り回した。泥は飛び散るが、素肌が見えることはない。それどころか、内側からうねるように泥の量は増していく。次第に泥に飲み込まれ、全身を構成する物質の全てが泥となった。
男は、影をそのまま立体的に起こしたかのような、人の形をした泥となった。顔の目と思われる箇所だけが白くなっており、それが異形の存在感を強く示している。
少しの沈黙が男の周囲に漂う。なす術もない男が顔を上げると、視界の隅に兎が倒れているのを見つけた。兎の体には男の体から飛んだと思われる泥が付着していた。焦げたような強く不愉快な匂いがする。男が撒き散らした泥が付着した全ての箇所が、異臭を放ち、生気を失っていた。
男が兎の元まで歩く。足跡が死の道となる。男が兎を抱き上げると、兎そのものが色を醜くし、泥のように崩れ、男の腕からすり抜けていった。
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カテゴリー: その他
投稿日時: 2025/12/18 7:28
K
色々書いています。