人魚
ある日、その男は海へと出かけた。彼には恋人も家族もなく、ひとりだった。そんな彼にとっては人生とは仕事をこなして家に帰りたいして金の掛からぬ趣味にそれとなく更けこむぐらいのもので、何とはない、浮き沈みのない平凡な存在に過ぎなかった。
しかしいつしか男はその現状に不意に嫌気がさしてならず、自分の今までやらなかったことをやってみようと思い立った。彼は運動が得意ではなく、スポーツ等の類をまともにやったことがなかった。そのため、サッカーや野球といった球技はもとより、水泳に関しても、まるで駄目だった。全くの運動音痴である。だが何故か彼は今日になり、突如として海に出かけることに決めたのだった。それは、彼にとっての気晴らしの選択肢の一つだったからでもあるが、彼は幸い海の近くに暮らし住んでいた。そのため、いつでも海に来れるには来れる身だった。
男は海に到着し、さて、来たのはいいが、何をしよう、と目の前に広がる波地一帯を眺めながら思案した。前記の通り、男は全くの金槌(水泳音痴)である。しかし、せっかく来たからには、海というものを楽しんでみたい。男は、海の家から浮き輪を借りて身に付けると、さっそく海へと入った。俺は自他ともに認める金槌者だが、浮き輪さえ付けていれば、下手に暴れぬ限りは溺れることもないだろう、男はそんな安堵を胸にして、浮き輪の浮力を借りて水面に身体を委ねた。空は爽快に晴れていて、太陽の照光がひどく眩しかった。男は思わず目を瞑り、波の流れに身体を任せ預けたまま、全身の力を抜いてリラックスした。いい気持ちだった。日頃の仕事に明け暮れるその産物の疲労といったストレスが、少しずつ細波の耳障りの良い音とともに、清算されていくようだった。男はそのまま、気づけば眠りについてしまっていた。
ふと男が目を覚まして辺りを見回すと、そこはすでにかつての浜辺付近からはかなり遠く離れてしまっていて、視界には海の家やら砂浜やらは当然、微かにも確かめられなかった。男はいつの間にやら、人気のない沖へと流されてしまっていたのだ。
男はひどくパニックになり、海上にも関わらずに我を忘れて暴れた。助けてくれ、誰か、助けてくれ、そんな叫び交じりの悲鳴が人気のない海上に響き渡る。誰の耳にも届くこともなく。
男はすぐにあの浜辺へと戻ろうと考えて、浮き輪だけを頼りに全く身についていない水泳能力を駆使して、方角もわからないままに何処知れぬ安全地帯へと泳ぎ始めた。それは、犬掻きも同然で、とても前方へと進めるような代物ではなく、男のばたつく足は、ただ水面を蹴ってばしゃばしゃと情けない水飛沫を飛ばし散らすだけのものに至るのみだった。
そして神のいたずらか、男の身に付けていた浮き輪が突如ぷすり、という小さな音を立てて、みるみるうちに萎み縮んでいくではないか。浮き輪は空気を抜き放していって、ついには干からびたしわしわの布切れのようになって、男の身体が水中へと沈み落ちた。
男は事態が瞬時に飲み込めず、ひどく混乱し、狼狽した。まさに今、自分の命が紛失の危機に晒されているのである。助けてくれ、というようなさっきの悲鳴の叫びも、今や口元を開ければなだれ込む水の襲来によって、掻き消されてしまう。ごぼごぼ、と手足をもがき、男は身動きが取れずにただひたすらに苦しむ。本能的に、身体の全感覚が鋭敏になっていた。生命を維持しようとする極度の感覚が彼の身体に満ち渡ったとき、彼は自分の状況をはっきりと理解し、自分のこれまでの平凡な人生がいかに穏やかだったか、考えを改めた。そして男は、ああ、今になってみれば自分の人生も、それほど悪くはないものだったんだな、とある種俯瞰的に見ることができた。しかし、今がそうもいってはいられない境遇であるのも事実で、やはり生物は死にたくないもの、男はその絶体絶命な空間の中でも、ひたすらに生きようともがいた。
しかし次第に意識は薄れ、もう駄目か、と冷えゆく身体に己の生命力の限界をついに感じた男が身体から抜けゆく力の残骸を僅かに目を閉じかけると、不意に足元に感触を感じた。それは不思議なもので、何か泳いでいる魚の鰭が当たったものであるかのようにも思えたが、どうやらそうではないらしいことが分かった。その感触は徐々に鋭敏さを増して、気づけば男の全身を纏い包み込んでいた。一体何が起こったのかと男がその感触のある状態の方向を振り向いてみると、そこには一人の人魚の姿があった。それは、紛れもなく人魚だった。長髪の、瞳の大きくくっきりとした、美しい顔立ちの、女の人魚だった。彼女は、男の顔を見上げると、彼の元へと泳ぎ近づき、彼の体を抱擁した。すると、人魚は突如男の顔に自身の顔を近寄らせて、何のためらいもなく口づけをした。男は一瞬、何が起こったのか分からなかった。しかし、人魚との口づけの中で、次第に自分の失われかけていた生命力やら呼吸不可の圧迫が回復し、その身に戻っていくような感覚を取り返していくのを彼は実感した。そして人魚がしばらくの口づけを終えて、男の顔を眺めてにこり、とこの世のものとは思えない比類なき美しい微笑みを向けると、何処へともなく、青黒い深海の底へと泳ぎ姿を消し去っていった。
男はしばらく呆然と水中に浮かんでいて、その人魚の今はなき姿を記憶の中で反芻させていた。しかしふと我に返り、自分がまだ水中に漂ったままなのを思い出して、男は戻った生命力を頼りに、水面へと這い出るべく手足を再びばたつかせた。すると驚くべきことに、男はすいすいと泳ぎをこなして、いとも簡単に水面へと抜け出すことに成功した。するとそこは何故か、あの男が浮き輪を身に付けて海に潜ったスタート地点の浜辺であった。男はその急な展開に僅かばかり混乱しながらも、自分が助かったことに安堵し、息を吐いた。きっと、あの人魚が俺を助けてくれたに違いない。彼女はおそらく、この海に住まう女神か何かなのだろう。男は胸の中であの救世主である人魚にこの上ない感謝の礼を伝え、海辺を後にした。そしてもう二度と、海へ入るのはよそうと決心した。
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カテゴリー: その他
投稿日時: 2025/12/20 15:08
最終編集日時: 2025/12/20 15:11
注意: この小説には性的または暴力的な表現が含まれています
アベノケイスケ
小説はジャンル問わず好きです。趣味は雑多系の猫好きリリッカー(=・ω・`)