欲
 それは、昼下がりの授業での出来事だった。先生が一枚の……喩えるならば、年賀状程度の大きさの紙を配った。そこには歴史人物や出来事に因んだ今日のお題が載せられている。私達はそこに過去の出来事を三行記して、皆と交流するのだ。一通り書き終えると、先生は声を上げて切り上げる。そして「何を書いたのか訊いてみましょうか」と私達を見廻した。軈て、その視線は私の友の顔へと向き、すっと当てる。 「じゃあHさん、お願いします」 「はい」友が云った。明瞭に題は覚えていないが、自身の信じている物……だったような気がする。不意に嫌な予感が差してきた。また突拍子のないことを言うのだろうな、と少しだけ楽しさもある。教室内は彼女が発表するので、ちょっと雑音と期待混じりの良い雰囲気だった。 「私《わたし》が信じているものは運命《うんめい》の赤い糸です。私が前に「運命の赤い糸なんてものはない」と云ったときに先輩が毛糸を結んで、「私が結んであげる」と云って下さったからです」  私は小説の一場面かなと思った。これが歴史の授業であることを悔やんだ。もしも現代国語だったのならば、物語に教諭は感動して涙を流していたことであろう。教室全体も一瞬は水を打ったようにシンとしていたものの、すぐにドワッと熱を帯びて面白おかしそうに楽しんでいた。歴史の先生は「かっこいいなあ!」と痺れている。心底感激していたのだろう。きっと、彼女はその時に心が温まった。恋心はこのように突拍子のないところで発生する。実は芽を出して実るまでが大事なのだが、彼女はその実りが早く、赤く成熟するように思う。そして私は、このように他人の経験を言葉や文字で聞くことによって心を温めている。何事にも興味深いと関心を向けることが、それに直結するのかもしれない。なら他人と触れ合うことで心は温まらないのだろうか?  まア、無意識に温まっているのではなかろうか。でも人は好きじゃないのでどうでもいい。美化された概念以外嫌いだ。これが外見至上主義《ルッキズム》か。だが外見ではない。そもそも彼らの経験と考えに興味があるのであって、別に外の殻はどうでも良い。私はどうすれば彼らと同じように心を温めることができるのだろう。 「手が温かい人は心が冷たいんでしょ」  冬場にはそんなことを云う人もいる。私は手が冷たい末端冷え性なので心が温かいことになるのだ。心が温かいとはどういう状況を指すのだろうか? 彼女のような「運命」に出会えた瞬間、我々は心が発熱するのだろうか。皆、なぜ沸騰しないのだろうか。彼女は時々沸騰反応のようなものを見せる。眼も眩むような恋心に灼かれた少女の成れの果てであろう。心なしか牡丹の花のような華奢な美しさが宿っているようにも見える。他人にはわからない、丁重さが髪ひと束にあることは確かである。油で濡らして櫛でいつも流しているその髪は、一体誰の為のものだろう? 苦しくなるような恋がある。私はそれを経験したことがない。だが気持ちはよくわかる。片想いはさぞかし辛いだろう。突然の喧嘩別れも辛いだろう。それさえも美しく見える。  美化された性欲を人は恋と呼ぶ。  私は友人に恋心を向けたことがあった。残ったのは発熱ではなく吸熱であった。故に、私の青い花は果実に成らず、萎えて枯れてしまったのだ。それから猛烈に関わるのが怖くなった。蠍の尾で刺されたような気持ちになって、毒が今も全身を巡っているようだ! 唯一癒しになるのは多種多様な音楽と少しの読書である。或いは昆虫採集であったり、料理を食べることだろう。そうすると話が脱線してしまう。無理やり路線を繋げ合わせておくと、こうだ。彼女は人との関わりで心が温かくなる。私はそうならないが、間接的な関わりでは心が温かくなる。例えば検脈は直接的だが安心はする。相手が生きて健康である証拠だからだ。しかしそんな固苦しいことを私は求めていない。情熱的な恋がしたい! 女性と情熱的なセックスがしたい! でも萎える。萎えてしまう。そして軽蔑的に見えてしまう。また、友達が羨ましくなって、とても静的に魅力的だと思えてくる、友情を壊して欲情に変えてやりたい、それ以外は何も求めていない。これが現状だ! 
愛染明王
愛染明王
最近、知識的な要求を満たされたり分かり合えたら喜びが最高値を超えて性欲に直結するのだと気づいた。創作もその一種だと判断した。ゆえに俺が変態化すると創作も細かくなるのでは?という仮説が立てられる。皿うどんが毎日食べたいからいつでもどこでも吸入できる皿うどん作ってほしい