理想

かすかな潮の香りが、村外れの道にまで漂っていた。 昨夜の雨で濡れた土はやわらかく、歩くたびに微かな音を立てる。 こんな静かな朝は久しぶりだった。胸の奥のざわつきだけが、やけに現実味を帯びていた。 今日、この村を離れる。 そう決めたのは昨日でもなければ、誰かに言われたからでもない。 ずっと前から胸の内で形だけはあったはずの決意が、ようやく輪郭を持ちはじめた。それだけのことだった。 荷物は少ししかない。 本当に持っていきたいものは、どうしても手では持てなかった。 記憶とか、声とか、笑い方とか――そういうものはどうしても持ち運べないらしい。 代わりに、旅の間の支えになるはずだと自分に言い聞かせた古びた地図を鞄に押し込んだ。
叶夢 衣緒。/海月様の猫
叶夢 衣緒。/海月様の猫
少し投稿頻度落ちてます。 2023年 2月27日start 3月3日初投稿