下弦の月のように 上

下弦の月のように 上
 陽射しの強い夏の昼下がり。彼らは希臘風の白い街を徘徊していた。明確な目的もなく、ただ、何かを求めて歩いていた。蒼穹を駆け抜けてゆく猛禽の影、その尾羽がさらりと垂れて視界から遠ざかってゆく。彼らはそれを見て「涼しそうだ」と思った。そうしてまた袖を捲って息を吐く。漆喰の塗られた洋風な家が光を反射して、彼らの黒襯衣に光を封じ込めていた。嗚呼、もう汗が垂れる。街では黄色い、爽やかな色合いをした檸檬が売られている。急な坂を登った。隣を歩いているクルルは平然と、ただ蹄を鳴らしている。渦の巻いた毛を背に長して鼻をひくひくとさせていた。 「君は『故郷』と言われて何が思い浮かぶ?」と、不意を突くようにエヴァンが訊いた。クルルは少し、ぎょっとしたように顔を向けてくる。眉間に小さな皺を寄せて、眼を剥いた顔だ。猫科に近い上唇溝が見えて、その間から牙が覗いた。 「故郷、と言われると先ず秋を思い浮かべますね。我が家では暮れ方に蟋蟀の鳴き声が聴こえるので窓を開けます。すると、隙間から秋の冷えた風が一気に入り込んで来て涼しくなるのです。その秋風に乗って近所に咲いている金木犀の香りが乗ってきますから、香りをツマミに酒を呑んでいました。而も、屋敷から外へ歩くと茜に染まった椛が一面に広がっていて、崖の下を流れている川を落ち葉で彩っていました。その景色をもう一度見たい、と時々思うのです」  クルルは哀しげに遠くを眺めた。その先に何があるのか、彼には分からない。郷愁に溢れた若い眼が空の青を吸収して、スッカリ鏡のようになっている。彼はその眼を見て、頭を悩ませた。何処迄も真っ直ぐに伸び続ける竹のような麒麟が、悪意のある動物からの乱暴で此の西欧に居る。本来居るべき場所は、此処ではない。そう思うと何だか胸が苦しくなってしまう。息を吸っても、身体に酸素が行き渡らないような気持になった。 「椛か。東国の何処だろうか」  彼が襟元の釦を外して、爪を掛けた。坂の上へ行くと塔が見えて跳開橋が掛かっているのが窺える。その下には濁った川が流れていた。いつもは雨が降っていてもっと濁っているが、数日の晴れのおかげで底が見える。川沿いを歩いているのに涼しくないな、と襟を揺らしていると、クルルがうーんと唸り声を上げた。 「英語で何と言うかは知りませんが、京洛都の西水郷という所です。標高の高い山脈が国を分けて連なっていて、その斜面の所から下らへんです。桃の樹がある所に広い湖があることから西水郷、桃水郷と呼ばれています」 「ふむ、私もそこに行ってみたいと思う。君はその都で細菌や菌類の研究をしたのだろう? 興味がある」  そう言って、面白そうにした。言葉を聞くなりクルルはまた吃驚して、それから頬をちょっとだけ染めた。 「本当ですか。ならば、秋頃に行きましょう……」
愛染明王
愛染明王
科学部の逸材