失恋
頬が冷たくなっていた。外は雲一つない青空で、遠くの景色を陽炎が揺らしている。私の眼の前に鳶の影が落ちた。私の足下だけ歪んでいるように見えた。近くに、腐敗したブランコがある。何もかもが錆びて色褪せてしまったようだ。昨日までの日常が、先刻の言葉で全て濁ってしまうのならば、私は此処で首を絞めて死んでしまおう。橙色の雛罌粟を前にそう思った。心臓に鬱悶の漲る蔓を巻いたように、締め付けられて朦朧としてくる。走馬灯のように、彼女の体が瞼に映し出された。
私の記憶上の彼女は、いつも太陽の方を向く向日葵のようだった。彼女は香水など吹き掛けるような性格ではないが、私の鼻には百合のような芳香が漂ってきて肌を潤わすようなみずみずしさを感じたのだ。薄紅色の柔らかい唇が肌に溶けるような色合いで、笑うと隙間から白い前歯が覗いた。悩めば、下唇が少し食い込んでしまうし、眠るときは涎が垂れる。そして弧を描くような輪郭が綺麗だった。艶のある黒髪を後ろで一つに纏めている。汗ばんだ頸のテカリと、ポトンと砂に染み込んだ粒。艶かしい細々とした指先と眼差し。その長い睫毛に包まれた眸は色素が薄く、瞳孔が明瞭に見えた。彼女の豊満な胸は柔らかな脂肪に包まれて、薄白い。きっと、彼女に似合う桃色の乳首なんだろうな、と毎日考えていた。容姿を見ても、触れても淫らだった。本能が疼くような堪能的な美女だ。彼女の生温かい息さえも蜜のようで、私は自然と翅を伸ばして引き寄せられてしまう。なんて罪な女なのだろう。いつかは彼女の漿液を洋盃で受け止めて、冷めないうちに舌で転がしてみたい。考えているだけで血管の浮かぶ陰茎《ペニス》が硬くなり、彼女の家へと反り上がるほどに愛していた。
そんな彼女に、私以外の恋人が出来るなんて考えたこともなかった。私はその報告をされた時、唖然として、時が止まったように感じられた。時計の音すらも耳に入らなかった。風も感じなかった。心臓の脈拍すら、意識する暇がなかった。「あ」とだけ漏らしたのが断末魔のように鼓膜の中で連続して、次第に鼻腔らへんが酸っぱくなった。
「卒業後くらいかな。凛君が『もし、俺が付き合いたいって言ったらどうする?』って訊いてきたんだ〜。私、その頃には好きな人が居たから迷ったけど、『大好きだよ』とか言われると好きになっちゃって。一眼惚れしちゃった」と彼女の文章が送られてくる。私は「本当か?」程度しか反応が出来ずに当惑した。そして、やり場のない怒りに駆られた。顔が紅潮して、唇を噛み締める。そうして眉間に皺を寄せると愛染明王のような面になる。疑問符など出てこなかった。一文で状況は理解出来た。それでも、理解したくなかった。末端まで張り巡らされた私の神経がそれを拒絶していた。
「デートしたのかい」私は蹌踉めいて、思わず壁に凭れた。膝が痙攣している。恐怖と嫉妬に塗れた粘り気のある感情が、何処となく溢れ出してくる。私は正常心を保とうと息を吸った。酸素が針のように尖って肺に穴を開ける。ピューと酸素が漏れて肋骨の下ら辺に溜まった気がした。返答は「うん」だった。明らかに喜んでいる。そんなところも可愛らしい、きっと彼の前では御粧しているのだろう。
「凛君が他の女の子に笑顔で接したりすると悲しくなって、自分が嫉妬していることに嫌悪感を感じるんだよね」
私は嬉しくなった。もっと嫌いになってくれ、そうして別れたよと報告して欲しいと思った。同時に、彼女が悲しむのは厭だ。笑って幸せに生きてくれとも思う。私はその話題を適当に、薄く処理した。そして倒れ込んだ。それが今だ。此の素晴らしい景色、涙で歪んだ青空だ。もう彼女の顔を見ることは出来ぬ、と思った。
そうして私は、雛罌粟を片足で踏み潰した。
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カテゴリー: 恋愛・青春
投稿日時: 2026/5/23 15:57
最終編集日時: 2026/5/23 16:17
注意: この小説には性的または暴力的な表現が含まれています
愛染明王
科学部の逸材