ともだちの必要性について
ふと疑問に思う。長いようで短い人生において、本当に“ともだち”は必要なのだろうか、と。
もちろん、他人と協力し合うこと、つまり協調性の面では、愛想よく話し、なかよくなるというのは大事なことではあるが、それが“ともだち”の必要性に直結するかと言われたら、そうではないだろうと私は思う。
第一、“ともだち”の定義も人によって異なる。少しでも話したことがあれば“ともだち”だと思う人もいれば、信頼して本音を話せる人ではないと“ともだち”だと思えない人もいる。そこで、私は辞書で“友達”を調べてみることにした。すると、「勤務、学校あるいは志などを共にしていて、同等の相手として交わっている人」と書かれていた。
この辞書の言葉をみるに、一般的に“ともだち”とは信頼できる相手のことをいうらしい。確かに、互いが互いをリスペクトしあっていれば、多少のすれ違いはあれど、相手と支え合うことができる。要するに、相手との確かな信頼関係があるならば、“ともだち”は必要であると言えるであろう。
一方で、相手になんの敬愛もない表面的な“ともだち”は必要なのだろうか。それ以前に、LINEの返信が遅いと怒られる、休日予定があるからと遊ぶのを断ると次の日から仲間はずれにされる、なんていう関係は、本当に“ともだち”と言えるのだろうか。
私たちは、人間である以上、相手の心を完全に知ることはできない。必ずどこかで喧嘩をするし、すれ違いもある。けれど、喧嘩もすれ違いも、信頼関係がないと生まれない。仲間外れにされたくないから一緒にいるなんて関係は、“ともだち”だとは言えない。
“ともだち”の必要性は、相手を思いやることではじめて生まれるものであり、そこに例外はない。貴方も、一度、自分の“ともだち”について、そして自分が思う“ともだち”の価値を考えてほしい。
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カテゴリー: 日記・エッセー
投稿日時: 2024/11/27 12:51
日和檸檬
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