社会の羽音

窓の外では工事で重低音の振動が。金属の軋む音が。これが無ければ日本は進化できないのだろうか、進歩できないのだろうか。大人の一部は「犠牲を払わずに守れるものは無い」とでも言うが、本当にそうだろうか。日本という国は「国民の快さ」を犠牲にしなければ進歩し続けるということを守れないのだろうか。そうだとすれば、小学生六年生で学ぶ「国民主義」というのはどこに行ってしまったのか。国民が騒音を出すことを快く思っているのだろうか。騒音という熟語から見てみよう。きっと作りし人目線では「騒がしい音」ということだろう。「騒がしい」という言葉にいいイメージを持っているだろうか。少なくとも中々持ちにくい。騒音など聞きたいものでも無いし、聞きたくない。 初めに述べたように、もし日本が「国民の快さを犠牲にしなければ進歩できない国」なのならば、そういう面だとかなり可哀想な国だと思える。現代だと工事の施行に市民や国民はどうこう文句を言えない。この状況に私は危機感を覚えている。最悪の場合は憲法改正により憲法から「国民主権」が消え去るかもしれない。確かに政治家や内閣に首相も国民の一部だ。だが、それらの人は特殊で、権力を持っている。 少し大きな話だが、日本の人は基本的に「相手の立場に立って考える」ことが苦手だ。例を挙げるとすれば、時々ニュースにも出るポケモンカード。ポケモンカードはものによっては五〇〇〇〇〇円やら一〇〇〇〇〇〇円を超えるらしい。だが、それはレア性や希少性による付加価値だ。だから、その事を知らずにそのカードを他人が破ってしまったら。もしそのカードが一〇〇〇〇〇円分と仮定すれば、渋沢栄一を十枚粉々にしたと同義だ。紙幣は角の破れ程ならば交換して頂けるが、付加価値によって価格が上がっているものは違う。角のほんの少しが切れただけで値段がどん底に落ちて、普通のカードと変わらない価値となる。値段などが関係ないとしてもそれがその人の宝物だったら。相手の宝物を破壊してしまったら。これ宝物なんだけど、と怒鳴られたら。あなたならどうするだろうか。そこで多いのが、「そんなの知らねぇよ。お前の宝物だとか言われてないし」と反抗する人だ。そいつの方が立場は下であるのに。それはもう既に決まっていることなのに。やはり、相手を自分に置き換えて考える、ということがどうも嫌いらしい。 そうでは無い人もいる。それが所謂“優しい人”や“模範的な人”なのだろう。だから、そういう人を増やさなければ日本の精神的な未来は薄れていくと私は考える。人の宝物を壊したらどうするかを考える前に、言い訳を考える前に、まず「どうしたら壊さずに済んだか」を考えるべきだ。どうしたら、騒がしい音を出さずに、人の耳を壊さずに済んだか。 今の現代社会に必要なのはそういう心だろう。
真夜中毒
真夜中毒
貴方は夜が好き? 私は好き。 でも人間は夜行性じゃないから、必ず母さんに叱られなきゃいけない。 こう見えて中受をする6年生で、まだまだ色々な意味で未熟。 私が未熟だろうと、そうではなかろうと、 どちらにせよ、結末的には夜を好きにならなければいけない道を歩むんだろう。