髪を抜く女
彼女が初めて髪を抜いたのは、雨がしとしとと降る春の夕暮れであった。茉莉花という、なまめかしい名前にそぐわぬ彼女は、まるで影のような存在だった。肌は青白く、目元には常に憂いが漂い、口元に微笑を浮かべることは稀だった。
その日、彼女は一人、窓際の椅子に座り、静かに外を眺めていた。春雨に濡れた庭の桜が、薄い霞のように揺れている。彼女は無意識のうちに手を伸ばし、黒髪の一束を指で掴んだ。そして、その細い指がゆっくりと髪を引き抜くのを、まるで他人の動作のように眺めていた。
抜けた髪を指先で確かめた後、彼女はそれをそっと膝の上に落とした。特に意味のある行動ではなかった。ただ、胸の内に巣食う何かをなだめるためのささやかな儀式だったのだ。髪を引き抜くたびに、彼女は心の中のわずかな重荷が軽くなるのを感じた。だが、それは一時的な慰めであり、すぐにまた重苦しい不安が戻ってくるのだった。
彼女が髪を抜く習慣を始めてから、幾度の季節が過ぎたかは定かではない。鏡を見るたびに、頭頂部の髪が徐々に薄くなっていくのを感じながらも、彼女はその行為をやめることができなかった。抜けた髪は部屋の隅に山のように積もり、彼女の存在自体が次第に色褪せていくかのようだった。
ある晩、彼女の家を訪れた友人が、その変わり果てた姿に驚いた。「茉莉花、どうしてそんなに…」友人の言葉に、彼女は淡い微笑みを浮かべた。それは、かつて彼女が感じていた軽蔑や嘲りではなく、ただの虚無であった。
「髪なんて、いくらでも抜けるものよ」と、彼女は囁くように言った。その声には、何の感情も含まれていなかった。まるで、髪を抜くことそのものが、彼女の生きる理由であるかのように。
彼女の中で何が崩れていったのか、それは誰にもわからなかった。自らの手で一筋一筋髪を引き抜く行為は、彼女にとって現実から逃れる唯一の手段だったのかもしれない。あるいは、己の存在を確かめるための行為だったのかもしれない。
そして、ある日、彼女の姿は部屋から消えていた。窓際の椅子には、彼女が抜き捨てた髪の束だけが残されていた。まるで、彼女のすべてがそこに置き去りにされ、風に吹かれて消えていったかのように。
その髪は、春雨に濡れた庭の桜の花びらと同じように、静かに舞い散り、やがて誰の記憶からも消えていくのであった。