笑いどく
朝には紅顔となりて夕には白骨となれる身なり──
女が消えたので、しめしめと思った。
大方毎度毎度と金をせがまれるのに辟易して、とんずらこいたのだろうというのが倉木の推測であった。こういうことは幾度とあった。倉木はその度に、それ次だとばかりに別の女の室へと転がり込んだ。行方をくらました女を聞屋みたく嗅ぎ回るような下世話なことを、彼はしなかった。その代わり疎ら通いだった目掛けの元へ、本腰を入れるようになるのが彼の常であった。
二号に限らず三号四号と当ての備蓄はあった。どれも教養はさておき倉木の目に適ったイイ女だったので、彼が雨露も凌げぬと途方に暮れることはなかった。
この女もなかなか金を渋ることが増えてきて、あまり倉木の助けにもならず無心の度に煩わしいので、向こうからいなくなるのでは好都合であった。
「なんぼいるの?」
歯並びの悪い、三十路ほどの遊女の問いに、倉木は四つ指を立て「四でいいぞ」とはにかんで笑ってみせた。これは醜女ではあるが気立ての良いできる女なので、倉木は平常より多めに催促しようと考えていたが、つい先日かの女に逃げられたばかりなのにこれにまで出奔されたら困るからと無理に堪え、割合柔らかな値で機嫌を取ろうとしてみせたのであった。
むろん返済の当てなどまるでなかった。だがいそいそと通い詰めのキャバレエに向かう道方で倉木はすでに、もう少し無心しておけば良かった、惜しいことをしたなという後悔の念に蝕まれていた。
「幽霊坊って知っとる?」
チェスタアフィールドのソファアに腰を掛け、机のグラスに手を伸ばそうとしていた倉木はそう言われて固まった。
「なんだそりゃ? 怪談か?」
わざとらしく首を捻る倉木を前に、女は「違うよォ」と顔を見合わせてくすくすと笑う。よじる身体にぴったりと吸い付いた紺のロングドレスがてらてらと照明を反射し光る。天井にぶら下がっている蝋燭型のシャンデリアが有機的に辺りを濡らし、女たちの妖艶さを際立たせている。
ナイト・ホークスと呼ばれるキャバレエに彼が初めて入ったのは二ヶ月前のことである。蛍光色に彩られたネオン街で唯一暗い、門前に灯りの一つも点っていないこの店を見つけた時倉木は嘘らしく笑い転げて馬鹿にした。そうして最初は冷やかしに笑い暖簾をあげ、しかしいまとなってはすっかりこの店の安々しい情欲の虜となっていた。倉木は週に一二回は欠かさず訪れ、女を侍らせ談笑に沸いた。この店に彼ほど足繁く通う者もそうおらず、らしく常連と呼ばれるようになるまで長く時間はかからなかった。
倉木は女の扱いにはとことん慣れていたが、彼の目掛けはおしなべて容姿醜貌、そうでなくとも顔かたちの乱れている者がほとんどであった。ナイト・ホークスの女たちも皆一様に面の整ってはいず、看板を嘘偽らぬ腑抜け具合であった。
倉木は常々女という生物を愛しんだが、それがすこぶる誉れ高い美形となると一転、話そうが抱えようが、まったくいつもの心愉しさに溺れられなかった。その気の張ったような扱いは彼にとって、よもやひどい苦痛とすら感ぜられた。そういう佳人に当たったときは別れ際に、ふっと額の脂汗を拭うのが倉木の常であった。ゆえに彼が娶る女どもはやはり総じて、その不細工に苦労する者たちにのみ限られた。
かくして倉木の性分と心意気とにこの安っぽい異郷はすっかり合っていた。
倉木はここまですんなり安楽に浸かれる場所があって果たして良いのかと、心のうちで自問して愉しむことすらした。
「子供なんよ」てらつく身体をくねらしながら女が打ち明けた。
倉木は口元まで持ってきていたグラスを再び止め、
「子供?」
と怪訝そうに返した。
女はそう子供。こんくらいの、たぶん中学生くらいかな、と手を掲げ頭の上で左右に揺らした。女はソファアに座っているわけで、実際は倉木の胸辺りに見えた。
「ふうん。んでそいつがなんだ。誰の子だよ」倉木は矢継ぎ早にそう投げかけ、酒をぐびりと仰ぐ。女は「それがねえ」などと口を開き「誰の子かわからんのんよ」とひどく鷹揚に答えた。
誰の子かわからない? 倉木はいっそ面倒な具合を感じた。
ここらの女から子供の話が出るときは、十中八九担い手探しの請負であった。産んだは良いものの男に逃げられ、耐えて女の薄給では養えもせず、かといってそこらに捨て置く度胸もない、目も見えぬ父なし子を憐れんで、新たな養い元を探すのが関の山である。そういう女は腐るほど這っている。ゆえにやれ子供と訊けば、一様に眉を寄せるのがこの街の通説であった。それが倉木も例外ではない。
「俺ァいかんぞ。なんせ金がねぇ」倉木は片手を顔前で大袈裟に振って「それにそんだけ大きけりゃ、いくらでも働き口はあんだろ、俺みたいな而立と違って」とほざいてみせた。
近頃は可笑しなことに、女に加えて男の若い奴らも皆綺麗に雇われた。この街には事事物物が渦巻いてるらしく、中には好き好んで若男を付けてもらいにいく酔狂な奴らもいるらしい。女の示したのが本当ならそいつはすでに青少年と呼べる、一番よい頃合いである。
「ちがうのよ、ちがうの」女が笑う。
「貰ってくださいなってわけやないの」
「じゃあなんなんだ」
女の放言に、未だ顔を顰めて怪訝そうに訝しむ倉木を見て女がまた笑う。
「ほんとよ、ほんとなの。そもそもね、私だってその子と話したことも、見たことすらないんだから」
「見たことないだあ? そりゃやっぱり怪談の類か」
「──怪談。そうね、不思議でいえばそう」
「ふうん。じゃあまあ知らんな」
どんな話だ、倉木が空になったグラスを女へと突き出す。
「そうねぇ──」グラスを受け取り、どうやらこちらも空になったらしいボトルを机の下に手早く置き並べ「見たのは私じゃなくって他の子なんだけど、えっと、三四五だから、全部で五人かな」とぶつぶつと呟きながらどこからか取り出した新品のハウスボトルを両手で掲げて見せ、女は「いい?」とさもわざとらしく首をころんと傾げる。倉木が答えずにいるとまた慣れた手つきでかぽっと瓶を開け、音も立てずにグラスに注ぐと倉木の前にすっと置いた。
「甲類か」倉木が漏らした。
私もいい? 女がまたもや作為のかかった素振りで首を傾げる。ああ、倉木は生半可に返事をして、ひとりグラスに口をつけた。女はそんな倉木を気にもとめず、やったあと子供のようにはしゃいでみせて、それから自身のグラスを酒で満たした。
まあ悪い所作である。
そう女を知らなければいよいよ掛かる。これもそれを知って魅せるのだからなお悪い。この辺りに居るのは皆悪い所作で魅せる、悪い女である。そして倉木は元来そういう女の持つつよさをもっとも良く好んだ。
「しろぉい顔よ」
女が低く微笑む。
「夜遅い時間、そうね、一番鶏が鳴くほんの少し前。それはお月様も見えないような真っ暗な夜よ。その中をあなたはひとり帰路に立って、瞑る目を擦りながらのそのそと歩いてるの」
んふふ、やけに芝居がかった言い草に倉木はふんと鼻を鳴らす。「餓鬼の顔か」
「それは声も出さずに歩いてくるの。のろつくあなたと違ってすぅーとまるで流れるみたいに。闇と同じ色の半纏に身を包んだ真っ白い肌の小さな子供。あまりに出る肌が白いんで、顔と四肢だけ浮いて見えるの」
ズズズと焼酎を啜る音が響いて消える。
倉木はへえ、と半端に返しながら女の語る様を見ている。
「それはもし、と小さくうめくの、そして飴玉みたいな眼を細めて、こう聞くの」
ねぇいま死にたくはないですか。
「……お前、ここに来て何年だ」
倉木が唐突に尋ねる。
「秘密よ、あんまり訊かないで」
「ふうん。なんだまあそれなりだろ。前は芝居(そういうの)がやりたかったのか」
倉木のぶっきらぼうな放言に、女がいかにも嫌そうな顔をする。
「りょうちゃん! いまイイところなのよ。せっかく風を出したのに壊さないで」
「ん? ああわりぃな、すまん」倉木は眼は変えずに素振りだけで謝ってみせる。
「だがな、まあなんだぶらついてるだけだろ」
悪びれもなく倉木が言い放つ。
いくら年端のいかぬ子供がひとり徘徊してようと、鎮った夜に親もつけずぶらついてようと、それが許されるのがこの街である。
であれば白い身体がなんだ。どうということはない、躾のなっていないただの悪子供である。倉木にはどうもそう思えてならなかった。
「私も知らないわよぉ。でも見た人みんなが口を揃えてやれ幽霊だのやれ怨霊だの言ってるから、そこらの尋常な子供とは違うんでしょ」
ふうん、倉木は想像する。
暗闇に白い顔がひとつ浮かんでいる。夜もすがら明るいこの街で肌が浮くほど暗いということは相当遅い時分だ。人っ子ひとり見えない街道で、そいつとふたり相対する。両脇には家屋が敷き並び、人の通れる間はない。それでもさっと僅かな隙間に目をやると、道上のよりなお一段暗い暗黒が沈んでこちらを見つめている。視線を戻して動かないと、顔についた口がにやりと開く。
「いつ頃だ?」倉木が尋ねる。
「マキさんが帰り際に見たって言ってたから、たぶん四時くらいかな」
四時か、倉木が唸りつつ右腕の裾を捲る。
「よし、この俺が捕まえてやろう!」倉木は突然吼えるように大声で息巻いて、次にわざと巫山戯て笑い飛ばした。女も合わせて大きく笑う。
女が巧みに冷えさせた店内が、急激に温められ揺れていく。
倉木が店を後にしたのは二時を超えたほどであった。飲み過ぎよとキャバレエのおかみさん──倉木の知っている中でもっとも乾いた女──にどつかれて、微醺を帯びながら千鳥足で暖簾をくぐった。そのまま右に折れ、月光に濡らされた通りを歩く。
街はなおもネオンを纏い、健全さを失って絶えずてらてらと煌めいている。仄明るい夜道のてらつきが、月のものなのかそれとも卑猥に誘う蛍光灯のものなのか、どうも朧げで判然としない。
人の熱と夜の冷え込みと、月の光と街の灯りとが混在した独特な空気のよわさは、酔った倉木の気に限りなく良く入るものだった。
微かに漂っていた静寂を男の怒号が破り抜けたのは、本通りを脇道に逸れた時だった。
ガコンと何かの倒れる音がして、次にそれは数度の打撃音に変わった。
倉木はぶらついた足を器用に動かし、流れるように音の先を臨んで伺った。すると音の先──路地の闇から、二三の若い男が推し出てきた。ずかずかと固く足で地を踏みつけている。
「せえぜえしたね、あっちゃん」
男の一人が言った。顔を向けられた先頭の男は、しかしどうして眉を厳しく顰め、
「人のもんに手ぇつけといて、ありゃなんじゃ!」と強く地面を蹴り付けた。怒りなお収まらずといった具合である。
残りの一際若く見える男はうつむいて、ひとり気まずそうにふたりの後に続いている。
男たちはぶつぶつと呟いて大きく歩を跨ぎながら、倉木の横を通り越し、背後の大通りへと消えていく。それをしっかり最後まで見定めてから、倉木はなんの気ない素振りでぐらついて見せて、男らが出てきた路地の方へと横目をやる。行き詰まった細長い空間の中に、擦り切れた雑巾のようなものが落ちている。あれは人である。
大方、女のことで一悶着構えたのだろう。先奴の言い草からしても、不義理を働いたのがこう転がる男のようだ。不貞なら愛想を尽かされた男の方にも悪が見えるが、かといえ窃盗もまた罪である。
倉木が路地前から顔を下げ、振り返って歩き戻ろうとした時、
「くそッ」と弱々しい呻きがどこからか漏れた。
聞こえるか聞こえないかの瀬戸際に浮かんだ、間男の啼き声である。
倉木はぴゅーとひとつ口笛を吹かし、鼻歌混じりで歩き始める。
酔いが少し覚めて先の道筋が良く見える。
どうやら道をてらつけているのは、やはり輝くネオンだったようだ。
朝は霙が降ったようでおもては変に明るんでいた。
雲は蒼鉛色にどんよりと落ち、玄関口を開けた倉木は空だけ見て、何も言わず部屋の奥へと引き返した。
部屋に居たのは倉木だけであった。
宿主の女は出かけているようで、朝から姿を見てはいなかった。
昼方白熱球もついていないので、窓から入る薄い陽射しだけが頼りとなる。
倉木は敷かれた布団の上に、両手で枕をつくり寝転んでいた。足を無造作に組み、視線は天井の格子模様にのみ注がれている。しばらくそうして動かないでいたのだが、ふと徐に手を伸ばしたかと思うと、「烙印」と印された雑誌を手に取って寝たままパラパラと捲り始めた。よれよれの小説は既に至るところで潤け曲がっている。少しの間そうしてながらに読んで、それからがばっと一度に座り直し、胡座に手を載せ読みを続けた。
何度読んだか解らない文章を、また同じように目で追った。時には文字を追い越すことすらある気がした。
本の背を片手で支え持ち、もう一方の手で器用に捲る。
この雑誌も元をいえば古い女のものだった。あれは丁度合う良い女だったので、消えた後にも倉木は柄になく気落ちし、残された女の私物を共に不要物だと笑いながら片付けていた、その時に見つけたものであった。女は倉木と同じ読む人だったのだが、当時を思うにどうしてかあれと本の話題を沸かした記憶がないのである。しかしこの古本を見たときには、すぐさま女の窓辺でもの読むその姿が、脳裏に刻々と浮かび出てきたのだからなお不思議である。
そうして数度とこれを繰るうちに、女への固執はたちまち書物への固執へと変貌した。
そこに暮らし想い痛む者たちは、またそのよわくも変わらぬ情動は、共に現実よりよっぽど人らしく倉木には思えた。
結局女の帰りも子夜を超えて、その日倉木は遅くまで読書に耽た。
しばらくはそういう不安定な安寧が続いた。ときには女が去り、無心ついでに罵られることも多々あったが、それを内包しても倉木の安穏に浮いた遊人生活は無形に成り立っていた。
その日深夜も老けた朝方、倉木はキャバレエの机に突っ伏して寝ていたのをおかみさんに起こされた。既に周りに女は見えず、店仕舞いだと叩かれ追われるように不埒な足取りで店外へと這い出した。酔いもとうに覚め、未だ薄暗いあたりの建物の輪郭を、しょぼついた目で必死に捉えようと擦り付けた。それから一度大きく伸びをして、頭を指で掴むように押し痛ませ気を現実へと無理に戻した。
刹那かいつからだろうか、道のあちらから男がひとり、歩いてくるのが目に入った。黒の半纏に身を包んだ、細身の、白面の男児である。病弱なのか、石膏のような肌が懸命に骨に掴まっているのが良く解る。
人工的な蛍光色の光を受けて、羽化したての蝉のように透き通ったそれを見て、倉木は「うっ」と嗚咽んだ。
そういままさにそこの角で生まれたのではないのかと本気で思った。倉木がこういう気立を感じるのは、いつも小説の中だけだと決まっていた。
男子はさくさくとした足取りで軽活に近づいてくる。そして、
「すいません。貴方いま、死にたくはないですか」
倉木は生憎いまのいままで二週間前の奇譚なぞ忘れていた。倉木がすぐさまこれがなんと言って称されているのかを思い出せたのは、あの時の女の芝居草と此奴の言った語り口調が、あまりにも似通って頭の奥で根強く繋がったからである。
そうしてみると倉木の脳は落ち着いていた。
「あんた、人かい?」
息で妙に揺れた声は、しかしそれの耳にきちんと届いた。
「ええ」幽霊が言った。そしてまったくの真顔で口を開いて言うことには、
「貴方も?」
倉木は一度目をぱちくりして、ああそうだ。当たり前だとしてから男の身体をじぃっと見つめた。これは、やはりどう見ようが人であった。そうして穴の空く前に目の細めるのをやめ、頭をぽりぽりと掻いた。二度見てもまた人である。少なからず怖い感はしなかった。恐らく触れもした。
「あんちゃん、こんな遅くに何やってんだ」
倉木の問いを、幽霊はまったく無視して死にたくはないんですか、とひとり落胆するように呟いてから、「種探しに」と顔を上げて澄んだ目を倉木に注いだ。
──たね?
なんのことだ。
戸惑う倉木を尻目に幽霊野郎は──野郎はどうにも合わない気がしたが──ひとり納得して真顔みたくなると「では」、と他人行儀に微笑んで脇を通り過ぎようとした。微笑んだと解ったのは顔がほんの少し奇妙に歪んだからで、ほとんど素面と大差なかった。
「待てよ」倉木が唐突に叫ぶ。そしてきょとんとした阿呆顔にひとつ、「お前さん、いっちょ捕まってみないか」
「何故です」
にやついた倉木の含んだ唸りを、しかし幽霊は難なく処理した。
「お前親はいるのか?」だが倉木も引かなかった。化け物でないのならこちらにも勝手があるのだと言うがみたく、怒涛と吠えた。「金はねぇが、雇い先なら見つけてやるよ」
「要りません。職は結構」
白い顔の眉が少し寄る。
「それより捕まってみるとは」
「なあに心配すんな。ちょっくらお顔を拝借するだけだ、それで綺麗におしまいだ」
「顔を、どこに」
「そりゃどこってお前、イイとこだよ」
へえ、男の顔が初めて感興に揺れたのを、倉木は見逃さなかった。
「お前、父親はいるのか? それとお袋、雇い先」
「母は死んだと聞きました、父は東北に。私は入学と共に上京を」男は淡々と答える。
「入学?」
「ええ帝大の方に少し。いまは降ろされましたが、悔いはないです」
──ていだい。帝國大學。大学。
倉木の脳裏にくっきりとした文字が浮かんで消えた。
確かによくよく眺めるに、この幽霊を子供というのは些か無理があった。顔は確かに柔く整っているが、幼いかと言われれば違う気もする。背丈も、これ程度の男はそう珍しくない。
しかし、やはり子供なのか?
背が低いわけでも、面が童顔なわけでもないのにも関わらず、やはりそれは子供に見えた。
解らない。判然としないというよりは、なにかが狂しい。ずれていると言っても良い。
これは。「お前歳は」耐えきれずに倉木が問うた。
「今年で二十三になります」
男はこれまた抑揚のない口調で、平然とそう言ってのけた。
置屋やクラブのひしめき合ってるのが心地良かった。
この贅沢で淫らな陋巷をぶらつくと、心が汚く洗われた。廻り巻く色香と薄っぺらい気概に、倉木は真実の人間が見えるように思えた。
常日頃の人が、どれだけ人間というものの上澄みを啜って生きた顔しているのかと思うと、腹から阿呆と呆れれた。
秋津を──あの幽霊を無心の対象にできたのは倉木にとってここ一番の収穫であった。
あの夜尋ねた秋津のアパートは予想に忠実、まさに貧乏学生のそれをしていた。ぽっくり逝きそうな大家に毎月、端金払って住んでいるのだと倉木はひとり頷いた。
しかしこの男にどうやらとんでもない量の貯蓄があるのだと知ったのは、奴がなんの気なしにぽろっと溢した、働いてはいませんよというほざきだった。最初は同類なのかと信じられぬよう疑ったが、実家が医院をやっているだと聞くとすぐさまそれはにやつきに変わった。毎月の仕送りに馬鹿だろと叫びたくなるほどの金額が振り込まれていた。
倉木が、医者んなって家継がねえのか。安泰だろと訊くと秋津は、大学は辞めたんです。医者になんてなりませんと確かに答えた。
生来の持ち腐れだなと呟くと、良いじゃないですか。似合ってますなどとのたうつ始末。
それでどうしてこんなとこ住んでんだと訊けば早々、これで十分だからです。ましてや他のものを思っても、どうも何に使えば良いのか解らないと言う。この金の遊び方を知らないのは倉木にとって都合良かった。
「んじゃあ俺が教えてやんよ」そう出るのは早かった。
倉木はこれに金をせびり、引っ付き回して自分も楽しもうという安易な魂胆を懐にしまっていた。
秋津はここまでかというほど世の娯楽にむいてなかった。
煙草は吸えば吸うだけ咳き込み、ついには吸わずとも喘ぐようになったのではやくに辞める外なかった。終わりには頭痛すらあったというから余程である。
代わりに酒は好んで呑んだ。倉木の差し響きでか、特に安酒が口に合うといつもそれしか口にしなかった。しかし容姿に順当でこれも才がなく、酒瓶を開けたがいいわ、二口呑めば机にうっぷしてすうすうと寝音を立てはじめるのが常であった。いつか彼は床に着いても蚊ほどの小音で眼を覚ますような夜聡い、浅睡眠だとほざいていたことがあったが、酔いで寝た時はひっくり返してもどうしても起きなかった。
それにやはり酒が入っているときに限り、ひとり寝言をあげることが良くあった。倉木はその度に適当に返事を投げるのだが、それに何かが返ることはなかった。
倉木は秋津が寝ていると、それでどうも安心できた。それは寝顔がどうとか男色がどうとかといった下世話なものではなく、むしろ鬼の居ぬ間のそれに似ていた。
彼が起きている時に倉木は、気を張らなければならない時分というのが幾度かあった。それは秋津の眼を見れば、解らずともすぐに感じた。そうしてそれに触れた時、遠のく彼の空気を崩さぬよう、丁重に話題を逸らすのが倉木には心底むずかしいことに思えた。その所業は、まさしく手を濡らさずに水の中からモノを取り出す、あの表現が妙に当てがった。これを言ったのがどの文士であったのかは覚えていないが、秋津の口から出たのでつよいものを書く奴の言葉だというのは難なくと察せられた。
秋津の眼、
倉木はこれに竜を見たのだ。彼の心の穏やかな水面下に、うねり狂う堅い意志を捉えたのだ。そしてそこにおいそれと手を突っ込んで水中を掻き揺らすことは、倉木には到底許されないことのように思えたのだ。
倉木は埋没はしない、最早無聊すらしてそうななりで読書をした。
食い入ることすらないのだが、読むときはどこか知識人のする有閑みたく鮮麗された読み草であった。それも捲る物はどれも繊細なものばかりで、余計男の異様なさまを際立たせた。「女みたい」と目掛けに揶揄われたことも一度や二度ではなかった。その度に倉木は本を片手で無造作に捲る仕草を見せ「かわいらしいだろ」と戯けてみせた。
秋津も読書家であった。その点、二人は計らぬところで馬があった。しかし秋津の読む物は石川や坂口といった荒い筋の語りで、目当たりもごつく粗大に見えるものばかりだった。それゆえ倉木は此奴の話していることの、一片を理解できぬこともあった。秋津は単に量で見れば、倉木なぞ断じて受け入れぬほどの本の虫であったゆえ、本種もそれなりの幅で倉木に話を合わせる程度のことは容易であった。
秋津は毎度と人に合わせる、そういう自虐的な節があった。
これは底なく心が透き通っているのだ。そしていたずらにそこらの大衆衆人より見識も知恵もあるので、大抵自らを下げることになるのだ。
その日も倉木はいつものように古臭いアパートの一室で寝転がって煙草を吹かしていた。乾いた萱の埃っぽい匂いが鼻にのる。
屋主の秋津は何やら長いものを読んでいるようで、時折するごほごほといった咳き込みだけが響いていた。恐らくそれは倉木の生んだ煙のせいではあったのだが、倉木はそんな瑣末なことにはまったく気づけぬほど愕然とまいっていた。昨晩から頭を回し過ぎてくらくらと変に揺れる感までしている。
そして長く続いた思慮の末倉木は思い切ったように、「おい」と一声鳴いた。
「なんです」秋津が答える。
「なんか喋ってくれや」
「なんかってなんです」
「そりゃなんかはなんかだよ」
「はあ。貴方も大概難しいことを言いますね」
「なんでも良いぞ。なんでもだ」
なんでもね、秋津が唸る。
倉木はこの間妙な覚えに侵されていた。それは秋津と話せば話すほど、よりしっかりと強固に倉木の心を締めていった。どうも昨晩から秋津の出す声が、あの夜──初めて幽霊坊の話を聞いた夜の、その路地奥で呻いていた間男の声に思えるのだ。そして一度そう思うと、そうとしか考えられないという心意気に囚われのだ。
これには倉木も相当困った。
なにを気取られぬよう、浅はかな衝動をなんとか抑え込むのがせいぜいだった。
「そうだな。やっぱ台詞を言ってくれ」
「なんの台詞です」
「俺が言う」
お前は真似しろ、倉木が胡座を組んで座り直す。
「子供──ほら」
「子供」
「罪」
「罪」
「青酸加里」
「青酸加里」
「金魚鉢」
「金魚鉢」
「青流亭」
「青流亭。……大下ですか」
「ランチュウ」
「ランチュウ」
「くそッ」
「くそ」
倉木は口を開けて、閉じて、そして呆けた。
こうあの時と同じ悪態を吐かせるまでは、やはり声の斉しいのだという絶対的な確証が胸の辺りに抜けず充満していた。もうどこか半分決まりきっていたのだ。
しかし違う。
それの口から出る他の言葉は依然としてあの夜と同じ声の質だが、この「くそっ」という自嘲めいた唾罵だけはまったくといって良いほど似つかない。
倉木はなおさら当惑した。
声質以外は、この男にあの間男と似通っているところなどひとつもないのだ。秋津に、人の女を娶るなどといった高度な俗的所業が成し遂げられるようにも到底思えない。
しかし倉木は、確かにこの声を聞いたことがあった。そしてそれは、やはりあの薄暗い路地裏から啼いているのだ。
「私も連れてってくれよ」
秋津がそう願い出たのを聞いて、倉木は少し良い心持ちがした。
秋津を連れてキャバレエへと向かう道中も倉木はどこか夢見心地で、ついに店先へと着いた時には、倉木には奇妙な逞しさが与えられていた。
「駄目よ、私が怒られちゃう」そう唱えてくる女どもに、こいつの偽ったような歳を言ってやるとそれもまた愉しめた。
「ほんとに子供じゃないんでしょうね? おかみさんそういうとこきついわよ」
「それにしてもえらい美少年連れてきたわね」
「なに、りょうちゃんソッチもいけんの?」
口々と喋り散らかす女どもは、それでも倉木に対するそれより随分と丁重にこの幼なげな少年奴を扱った。ソファアの周りを囲んでは、ひっきりなしに声の出る顔が入れ替わっていく。長靴のかたかた鳴る音がする。
それを倉木は秋津のすぐ脇に座り、浮いた特等席で眺めていた。ひとり異常な有頂天に浸かる倉木は少しおかしくもあった。しかしそのおかしな熱は、その現状を目辺りにするうちにみるみると冷めていった。
秋津は、終始固まり身体を潜めてうつむいていた。
女が声をかけてもうんとかああとかだけで言葉という言葉を吐かない。終いには女も気を使って、黙ってしまう始末である。
倉木はそれを真横で見ながら、腹の奥に沸き立つなにかをしっかりと感じていた。
その愚行はさながら倉木の暗部に易々と触れたのだ。
倉木には、なぜ秋津がそう女を無碍に扱うのかまったく解らなかった。己が誘っておいて、此奴まで女の鍛えられた細勁を阿呆みたく下に見るのかと、無性に苛立った。
しかし倉木の慮りの反面、喋りもしない割に秋津はどうもモテた。女たちは声こそ無闇にかけはしなかったが、それは女たちの気遣いの結果であり、ある種女たちの持たされたつよさの一環でもあった。処世術と説いても良い。女どもは付かずとも離れず、これの周りに居着いていた。これはここらの女において見れば珍獣のようなものなのだと、倉木は変に理解した。
自分よりこれがモテるのは不思議と悪い気はしなかった。秋津の顔は確かに小綺麗に整っている。倉木も勇ましく漢顔で女ウケは良いのだが、それとは別に、これには人種の違う美性があった。見たそばからそれが先天性のものなのだと解らせるほどに男の顔は巧くできていた。それに加えいたずらにその自己陶酔に溺れず、むしろ自虐的思考にいつも浸りきりなのが、倉木にはもちろん、初めて触れたはずの周囲にも良く伝わっていた。そして倉木はその伝播も解った。
ゆえに余計秋津の粗暴な態度が目につくのだ。これはある種裏切りに近かった。この男に持っていた、無意識的な期待感への裏切りである。
店を出た後、倉木は一段と真面目な顔をつくり問いただした。
あれはなんだ! 怒号に近い声が暗がりに響いた。すると秋津はいかにも平常な顔をして、楽しかったと言った。ありがとう、また頼む。
その呆気ない張り気のなさに、倉木はどうも馬鹿馬鹿しくなってしまった。憤りの止んだわけではなかった。しかしこの胸襟を、そう安易にこの男の元へと向けて良いのかという逡巡が生まれたのだ。そしてそうして一度立ち止まってしまうと、もう前のようには走り出せなかった。
あれも仕事をしてるんだ。巫山戯るならよせ。そう言って倉木は身を翻して無作法に髪を掻き上げ、その夜の別れを告げた。
それから何度か秋津を連れて女の元へと出向くことがあった。大抵は倉木のひとりどこ行くのを、秋津が止めて是非と誘うのだ。そしてやはり秋津はその度に固まって、びくともせずに縮こまっているのだが、ひとたび店の外へ出たかと思うとやれ「この店は終いが良かった」だの、やれ「金は払うのでまた頼む」だのとのたうって心底感慨深そうにしているのだ。
こう報告するように話す際の秋津ほど情動的な彼を見ることはなかった。
倉木には、最早この男の趣味趣向がまったく解らなくなっていた。もとより秋津は大きく意向を掲げようとはしないのだ。明らかおかしな論説に対しても反駁のひとつも出そうとはせず、沈黙を貫いて見向きもしない。ただどうでも良いような好き好みの分野に対してだけはこれでもかと口を出す。決して主論を担ぎ出そうとはしないが、確かに考えついた先の選り好みと思惑を抱えている。
倉木はそれを竜としたが、有るのは解るのに見えはしないのだ。
そこに存在するはずなのにそれが一体なんなのか、どういう思想なのか知らないのだ。そう考えると倉木には、初めから秋津の趣向など解っていなかったとも見える。しかし確かに輪郭は辿っていた、それが解るうちは、知りはせずとも追えていたのだ。
それがどうだ。近頃の女どもに対する奴の態度は、その薄垂れた系線でさえ辿っていないではないか。
倉木は、いつしか女に秋津の寂れた態度を謝るのが日課となっていた。他人の為に頭を下げるというのもまた倉木には初めての体験であった。それは金源半分、言い訳半分というのが本音であった。秋津の顔が潰れるのは、倉木にはいよいよ煩わしいことのように思えたのだ。彼の顔を立てるのは、むしろ倉木の望みに近かった。
女どもは慣れているのか倉木の連れゆえか、それほど面倒に思ってはいないように見えた。むしろ色恋沙汰に発展していくのか、また呼んでくださいなとくすくす乞われることすらあった。そうなるとなおのこと倉木の謝儀は、必要に駆られての結果ではなく、ただ倉木の望んですることと見えてくるのだ。
倉木がついに秋津の素行へ物申すと振り切れたのは、十二回目のキャバレエ叩扉時だった。店の前でまたもや感想会でも開こうかという勢いの秋津を掴み、肩を持って壁へと押しつけた。秋津は驚きもしない、至って変わらぬ顔をしていた。むしろ先ほどまでの勢いが消えて、無感情に近づいたようにさえ見える。
倉木は確かに男の振る舞いに苛立っていた。
苛ついていた。苛ついていて、しかし口を噤んだ。
倉木は怒れなかった。天稟のものなのだ。彼は誰かを叱る時、いつも憤る自分を見るのだ。そしてそうしているうちに、怒りは冷めて見窄らしく萎んでしまうのだった。気を強く出るのは得意だったし、なよなよしている奴を見るとはっ倒してやりたくなった。
しかしどうしても、人に怒りをぶつけ砕いてやろうという域まで及ばないのだ。
「チッ」浮いた舌打ちを漏らし側にあった空き瓶を蹴り飛ばした。
自分にはいくらでも怒れた。その事実がさらに彼の苛立ちを加速させた。
ひとり悶々とする倉木を前に、秋津はやはり変わらず素面である。
どうしてこの泡立つものを他にぶつけることが出来ないのか。怒気は倉木の中に募るだけ募って憤慨となる。人を殴ることは日常であったし、うまく痛みつける術を知っていた。しかし殴るのと怒るのは違うことを、倉木はまた良く知っていた。
彼が自分の顔を殴りつけたのは、一度や二度ではなかった。暴力に訴えることが自身を堪えさせる唯一の方法のように思えた。殴られると痛い。それは彼が知っているもっとも確かなもののひとつであった。しかしそれもいつしか儀式みたく形式化して、なおのこと彼の焦燥は増した。呆れて笑うことすらあった。
これは自身への克己であった。
しばらくは間があった。
「俺を殴ってくれ」倉木の眼が確かに秋津を見た。
ばちん。突如ゴム紐の弾けるような音が響いて視界に茶壁が滑り落ちた。首が曲がっている。倉木は自身が殴られたということに気づくのに数秒かかった。握っていた手が開かれて、滲んだ汗が空気に晒され冷える。
「はは、遠慮がねぇや」痺れた顔を奇妙に顰め倉木が漏らした。
あの細々とした腕からは想像もできないほどきちんと叩かれた。
はたいた当の本人は、そう一抹も揺るがぬ目線で倉木を見ていた。
そして一言、「すまない」、とさも当然のように言ってのけた。
殴られた肌がひりつく、自分で叩いた時より数段痛かった。
それから秋津とは段々と疎遠になっていった。一度アパートで、秋津の親父さんの使いとか言う男に会ったのも大きかったかもしれない。あの老夫は、倉木よりも断然綺麗に秋津を理解していた。幼少からの関係だと称していたので疑いようもないのだが、倉木はこれをすんなりと受け入れることが苦痛に思えたのだ。
秋津と会わなくなって二ヶ月が経った。
「きてよ」ある日の夜、囲いの目掛けが倉木の上で甘ったるい声で鳴いた。倉木はその嬌声を聞きながら、目を一度、二度と大きく瞬かせた。どうしてか目の前で猫みたく身体をくねらせる女の姿が、人でない、異形の化物のように見えたのだ。突如朧げな秋津の顔が女だったものの顔に重なって浮いた。幻影の中でもその面は、やはりどこか儚く虚って白けて見えた。倉木はその時化物の下に横たわる自身の姿を見て、なぜか自分がいよいよ惨めに思えた。
それから倉木はめっきりキャバレエに通わなくなった。
未だ寝転ぶ先は目掛けのもとであったが、それもまともに女の相手をしなくなった。宿主は「あたしにも換えはいるのよ」、とばかりに室を開けて留守にすることが多くなった。倉木はその軽い静かな合間、ひとりひたすら本読みに耽た。
金もないのにゾッキ屋で古本を漁り、畳に胡座を組んでは赤い目で一心に字を追い続けた。趣向も無意識か秋津に寄った、剛気でお堅い奴らをざっくばらんに読み進めた。ざんばら髪が枝垂れ柳がごとく伸びて垂れた。ろくに風呂にも入らなかったので、身体からは嫌な瘴気がむわっとした粘度で立ち昇っていた。倉木はそんなことはいざ知らず、撚れた数物を読了しては、ざばっと雑破に部屋の隅へと投げ捨てた。
倉木が秋津の訃報を知ったのはそれからさらに二ヶ月の後のことであった。
送られた手紙を介して知ることには、朝方女と川に浮いて死んでいたらしい。
心中だそうだ。女の影など一切見なかったのに、倉木は不思議と当然という気がしていた。やはり美しい女なのだ。倉木の苦手な女なのだ。
手紙の送り主は件の親父殿で、葬式の案内のように見えた。彼が自分を把握していることには驚いたが、あの老夫が告げたとすると合点がいった。
秋津は、どうやら物書きをしていたらしい。医者を捨ててまで選んだ道なのだろうが、売れ行きはまったくと書いてあった。残念なことらしい。
式場へ向かう道中も倉木は、どこか妙に落ち着いていた。
むしろすんなり、あるべきものがあるべきところに置かれたような安心感すら感ぜられた。
葬式の場には知らぬ顔ぶれが、さも沈んだ表情で並んでいた。厳つい眉の吊り上がった益荒男に、肥えて正座の脚肉が溢れた婦人、取り巻く空気に憑かれなにを察したか黙り込む餓鬼どもに、それすら読めぬのか嘘笑顔の男、あちらを見てもこちらを見ても、ひとりさえ見たことのない顔がしかしみな神妙そうに並んでいる。
死んで初めて秋津の周りにこれほどの人間が生きていたことを知った。
みな、秋津を知っている。
途端倉木は耐えきれず吹き出した。
ぐるりと音がして百の顔がこちらを向いた。周りの、取り分け女どもの視線が刺さる。男どもの睨みつけるような形相よりも、女子供の理解できぬものを相手にするような純朴な眼差しが効いた。倉木は畳に腰を据える間もなく、ほとんど追い出されるように葬式を後にした。
倉木は泣いてこそいなかったが、真顔というわけでもなかった。ただ何かが浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返すその過程のどこか一片で、中途半端に固定されたかのような顔をしていた。
声は笑っていた。灯りの消えたネオンの擦れた表面に、笑い声だけがのんびり昇って行った。からっとして酷く煩かった。