Norn

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第一話:Momentum  私たちは未来から押され、過去から引っ張られながら生きている。  未来にはまだ起きていない出来事が詰まっている。  それらは皆、自分が訪れる番を待っている。  そして少しでも早く現在になろうと、絶えず背中を押し続けているのだという。  一方で過去は違う。  既に終わった出来事たちは忘れられることを嫌う。  思い出として残ろうとし、現在を自分の方へ引き寄せ続けている。  未来が押し、過去が引く。  その力が釣り合っているからこそ、時間は一定の速さで流れているように見える。  楽しい時間があっという間に過ぎるのは、未来が我先にと押し寄せてくるからだ。  次の出来事も、その次の出来事も、自分が現在になりたいと競い合う。  だから私たちは前へ前へと押し流される。  反対に、退屈な時間や苦しい時間はなかなか過ぎない。  この時、未来はまるで訪れることを拒むように、押す力を失う。  結果として、現在は過去にだけ引かれ続け、円滑に前へは進まない。  つまり幸福な時、人は未来に急かされる。  そして不幸な時、人は過去に捕まる。  そんな話を、机に座りぼんやりとした男子高校生は思い出していた。  「カナ! 弁当食おうぜ〜!」  友人の三人が、声をかけてきた。  直球に言うのもなんだが、まだ女子とは縁遠い、いわゆる冴えない部類の男子生徒たち。  類友という言葉が最も似合うのは、このカナと呼ばれる男子生徒と、三人の友人だろう。  「あ……ごめん、今日は約束してて……」  「あ〜彼女だろ? いいよな〜青春してて」  一人が芝居がかった調子で、天井を仰いで呟く。    「あ、いや、そういうんじゃ……」  慌てて否定しかけたが、面倒になってやめた。  カナは、友人がいるだけマシだろうと心で漏らしつつ、屋上へと足早に向かった。  屋上へ向かう階段。  一段上がるごとに、心臓が強く弾む。  まるで、次の瞬間が待ちきれずに自分を押し上げてくるようだった。  校庭を一望できる、二人用のベンチ。  そこには、一人の女子生徒が座っていた。  「カナ!!」  カナ、と呼ばれていた男子生徒が、その女子生徒に向かって、カナ、と声をかけた。  女子生徒は振り返り、カナと目が合うと微笑んだ。  「も〜叶翔くん、いつもと同じあだ名で呼ばないでって、言ってるでしょ?」  「ごめんね、花奏。 みんなの前での癖、まだ抜けないな……」  そう言いつつ、叶翔(カナト)は花奏(カナデ)の隣に腰を下ろす。  二人は弁当箱を開け、一緒に食べ始めた。  花奏が卵焼きを箸でつまみながら、他愛もないことを笑って話している。  何気ない日常、卒業までに欠伸が出るほど繰り返されるはずの時間。  それでも叶翔にとっては、これ以上先には進んでほしくない。  ずっとこのままでいたい。  そんな時間だった。  「叶翔くん、よく食べるよね。 はい、あ〜ん」  花奏がミニトマトを箸で差し出した。  叶翔は差し出されるまま、素直に口を開けた。  「美味しい……! これ、家庭菜園だっけ?」  「良かった〜! そうだよ、自分で育てたの!」  将来は農家かな、なんて益体もないことを考えつつ、叶翔は自分の弁当へと箸を戻した。  他愛もない会話を続けるうちに、未来はすぐに迫ってきた。  やがて、昼休みの終わりを告げるチャイムが、屋上にまで薄く届いた。  「あっ……時間だね」  「もっと話したかったけどね」  二人はどこか動きを惜しむように弁当箱を片付け、ベンチから立ち上がった。  屋上の扉を開き、四階の踊り場へと降りた。  「それじゃ、また放課後に」  「わかったよ。 またね、叶翔くん」  二人はそれぞれの教室へ戻り、また同じような一日を過ごした。  放課後、昇降口で待っていると、花奏が小走りにやってきた。  「お待たせ、日直で少し遅くなっちゃった」  二人は連れ立って、いつもの土手道を歩き出した。  半歩遅れて隣を歩く花奏の影が、時折叶翔の影と重なる。  川面が、傾き始めた光を跳ね返している。  来週はどこに遊びに行くか。  試験対策の勉強会はいつから始めるか。  また明日もあの場所で待ち合わせようか。  二人は何の変哲もない会話を続けていた。  それだけでも、十分だった。  「ねえ」  花奏は、叶翔に体を向けた。  「ん?」  花奏はしばらく黙ったまま、傾いていく太陽を眺めていた。  言葉を探しているような、その沈黙も心地よかった。  「……あのね」  ようやく花奏が口を開く。  「私、この時間がずっと続けば良いなって、思ってるんだ」  川面の光が、花奏の横顔をゆっくりと橙色に染めていく。  叶翔は、何も言えなかった。  言えなかったのは、恥ずかしさのせいだけではなかった。  (同じことを、考えていたのか)  自分の中だけに留めていたはずの願いが今、花奏の口から告げられている。  それが嬉しいはずなのに、叶翔の胸には名前のつかない小さな不安がよぎった。  花奏の後ろの空には、山羊座が浮かんでいた。  しかし、それを叶翔が知ることはない。  「そろそろ、暗くなってきたね」  花奏の声で、叶翔は我に返った。  「あ……そうだね。 送っていくよ」  「ううん、今日はいいよ。 このまま、少しだけ一人で歩きたい気分なんだ」  花奏は微笑んで、そう言った。  いつもなら少し寂しく思うはずのその言葉も、なぜか今日は素直に頷けた。  「それじゃ、また明日」  「うん、また明日」  二人は土手道の途中で別れ、それぞれの家路についた。  叶翔の帰り道は、いつもとなんら変わらなかった。  商店街を抜け、いつもの時間に、いつも通り家に着いた。  しかし花奏だけは、まだ土手道を歩いていた。  さっきまで橙色だった空は、まだ同じ色のまま、沈むことなく留まっている。 ―― この時間が、ずっと続けば良い。  花奏の願いだけが、静かに、確かに、世界に届いていた。  次の日、叶翔はいつも通り高校へと向かった。  昇降口をくぐり、教室に荷物を置く。  しかし、ほどなくして叶翔は異変に気づいた。  「あれ、花奏まだ来てないのかな」  一限が始まろうとしても、花奏の姿はどこにもなかった。  昼休みになっても、状況は変わらない。  「花奏がいない……」  花奏のクラスにも、いつも本を借りている図書室にも、委員会で使っている音楽室にも、姿はなかった。  すぐに屋上へ向かう。  やはり、花奏はいなかった。  花奏のクラスメイトに尋ねても、誰もが困ったように首を振るだけだった。  「今日は見てないけど……」  その反応に、不自然さは感じられなかった。  まるで、いないことが普通であるかのように。  気づけば、叶翔は昨日の土手道に立っていた。  他に、行く当てなど無かった。  川面は、今日も同じように光を跳ね返している。  けれどそこに、花奏の姿はない。  「花奏……!」  声が、河川敷に虚しく広がって消えていく。  返事は、ない。  「花奏!」  何度呼んでも、結果は同じだった。  空はもう、いつも通りに暮れようとしている。  昨日、あれほど留まっていたはずの橙色は、今日はただ静かに、藍色へと沈んでいった。  叶翔はその場に立ち尽くし、ただ暮れていく空を見上げていた。  ――もう二度と、あの時間には戻れないのだと、まだ気づかないまま。

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