黒桐 陽向

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黒桐 陽向

時の魔法

目覚ましが鳴る 今日も 変わらない毎日が始まろうとしている。 僕は、目覚ましを止め、ベッドから降りた。 -朝- 階段を降り、台所へ立つ。 まず、やかんに水を注ぎ、火にかける。 その間に、洗面所に行き、顔を洗う。 起きた瞬間から怒涛の勢いで、出勤支度が始まる。 ならば、もっと余裕をもって起きればいい。 きっと普通ならそう思うのだろう。 僕は、割と、寝ることが好きだ。 できるだけ、ぎりぎりまで寝ていたい。 こんな僕を君は、すこし、あきれてみていたっけ。 ふと、そんなことを思い出す。 台所に戻ると、ちょうど、お湯が沸いていた。 僕は後ろの戸棚から、インスタントスープを取り出し、カップにいれ、湯を注ぎ込む。 ふわっと上がる湯気、ゆとりある時間はないが、この湯気を見る一瞬が僕は、結構好きだ。 猫舌ではないが、沸騰したばかりの湯で溶かしたインスタントスープを即時に飲むのは危険だ。 だから僕には、朝の動きに順序があったりする。 とはいえ、きっちり決まった順序通りでないと、気が済まないような、几帳面な性格ではないが…。 熱湯を注いだスープをそのままに、僕は、主食を出す。 米の日と、パンの日とまちまちだが、今日は米の日。 冷蔵庫に昨晩炊いた白米があるので、それを茶碗に分け、レンジをかける。 その間、僕は、パジャマから仕事着に着替える。 レンジが終わるころに丁度着替え終わる。 本来なら、おかずなどを調理したり、準備するべきなのだろうと、頭では思うが、僕が起きてから家をでるまでだいたい、長くても30分~15分。 まぁ、この一言で分かるかと思うが、そう、おかずを作っている時間はさすがにない。 朝食を準備し終えたら、一瞬だけ、ヘアアイロンをコンセントに差し込みに、洗面所に戻る。 それを終えたら、ささっと台所に戻り、椅子に座り、ご飯を口に運び、お茶や水で、流し込む。 そろそろ、スープの温度がちょうどいいころ合いかな。 そう、お湯を一番最初に沸かし、スープを先に用意するのは、すぐに飲める温度になるまで、ちょうどいい時間だからだ。 昼食なら、熱々で飲みたいけれど、時間が迫っている中、やけどしそうになるのは嫌だから。 食べ終え、水を張った桶に、食器を入れる。 洗面所に行き、髪を整える。 残り5分であることを確認し、僕はスポンジに洗剤をしみこませ、水に浸かった食器を洗う、水切り用の桶を調理台に置き、洗剤を流した食器を無造作に並べていく。 出発まで残り2分、上着を着、鞄を持って、猫に「行ってくるね」と一言いい残し、家をでる。 今日も朝のミッションは達成した。 たまに、調子が悪いと、食器洗いを完了できぬまま、家を出る羽目になることがある。 そんな日は、きまって、遅刻ギリギリで走らざるを得ない。 そして、決まって何かしらの忘れ物をすることはお決まりだ。 今日は、無事、自分の型通りの出勤ができた。 だからなのか、今日の気分は悪くない。 玄関の扉を開け、外の空気を一息吸って、季節を感じる。 四季折々の空気感が僕に何かを伝えようとしている。 今日は、ゆっくり歩いてバス停に向かう余裕があった。 そんな日は、少しだけ、得をした気分になる。 数歩歩きつつ、空を見る、今日の空は雲の無い透き通った「青」。 世界は、今日もせわしなく回っているであろうなどと考えながら、風を感じつつ見上げる空の色を確かめる時間がある日は、少し心が軽い。 僕が、家を出るころは、冬なら少し暖かくなり始めるころ、夏なら、もう暑くてたまらない時間帯だ。 バス停まで徒歩10分、見慣れた景色の中に、綺麗な景色を見つけ出すゲームが最近の僕のマイブームだ。 陽の光が作り出す、影の造形。 空に舞う鳥。 空気の味。 それを感じる余裕があるとき、僕は今日はいい日だと思うことができる。 これまでの僕は、こんな時間があることを知らなかった。 誰かの視線、小声の話に、臆病におびえながら、被害妄想に振り回され、居もしない敵を、勝手に自分で作り出していた。 今思うと、馬鹿らしいとさえ思えるあの頃は、無駄な時間を過ごしたと、いまでこそ思える。 いつも乗るバスは、日により混み具合もまちまちだ。 今日は座席が空いていなかった。 カーブの多いこの町は、バスのつり革につかまると、足腰の弱さを思い知らせてくる。 遠心力は嫌いだ。 振り回されるから。 「振り回される」のは、嫌い。 人との関係もこの遠心力みたいに、僕を行きたくない方向に引っ張て、外に吹き飛ばそうとする。 バスを降り、勤務地のビルへ入る。 周りの人間も、出勤をしている。 みんな大変だななどとぼんやり他人事のように思う。 職場に着くと、座席について、少しぼーっとする。 朝は、あれほど忙しなく動く癖に、普段はそこまでセカセカ動きたくないタチだ。 PCの電源を入れ、一通りの業務に必要なソフトなどを立ち上げる。 何をしているか毎回あまり覚えていないようなくらい、仕事の内容は毎日淡々としていて、仕事の時間だけは、やたらと長く感じられる。 僕は、仕事が嫌いでもないが、好きでもない。 要は、お金が必要だからと出勤しているに過ぎない。 やりがいを持った熱気のある人間は、僕には、石炭をくべて走る機関車のように、なんだか機械仕掛けのように見える。 オフィスの座席に就いたら、あとは終わるまでは虚無に等しい。 ここで情熱を持てたらと、思わなくもないが、僕にとっては、仕事以外の時間のほうが貴重に感じられる。 -昼- 虚無で過ごす時間の中、作業を淡々と行い、時間が過ぎていく。 楽しくも、苦痛でもなんでもない、ただ時間を浪費するだけ。 繁忙期以外、淡々とした作業の中で、僕は、いろいろな考えをめぐらす。 外で、感覚的な五感を働かせているとしたら、業務中は、思考をめぐらす感じだ。 昼、僕は、誰かに、どこに何しに行っているかあまり見られるのを好まない。 だから、世間一般の昼休憩時間に外にはいかない。 時間をずらし、好きな時に出る。 職場や、職場の人間が嫌いなわけではないが、なんとなく、食事を職場で採りたくない。 たとえ、コンビニの弁当や惣菜だったとしても、購入後に会社に持ち帰ってきて食べようとは思わない。 イートインスペースや外食をする。 1人で、窓際に座り、スマホで情報を収集するなり、思考をめぐらすなり、景色を見て、ぼーっとしたり、時には本を読んだり。 実質、7~8時間、オフィスに居なくてはならないのだから、1時間くらい自分だけの時間を過ごしたい。 僕はそう思っている。 -夕・夜- 陽も陰り、暗くなった街を、家路につく。 複製されたディスクをリプレイするような毎日は、この退勤までの時間で終わる。 かつては、退勤後、即座に帰路につき、それこそ、昨日の今日を延々と繰り返しているような日々だったが、ここ数年、僕は、その生き方を辞めた。 確かに、仕事を休まず毎日を過ごすごとは大切だし、結果としてそれは自分の生きるための賃金に直結するわけだから、体力を消耗せず、明日の勤務を達成することは必要だ。 ただ、どうしても、学生を終えた自分の、そんな何の変哲もない、複製されたような日々を送ることに、納得ができなかった。 今日も明日も、昨日をコピーしてペーストしたかのような日々に、何の魅力も、楽しさも見いだせなかったのだ。 お金をかけて、学校に入り、卒業し、昨日を録画したディスクを再生しなおしているような毎日を過ごすうちに、感性も、感情も薄れていくような気がしてならなかった。 何事も片付かず、ただただ浪費していく時間を、ただただ虚無に消費していくばかりで、自分の生きている理由がわからなくなりかけていた。 確かに、お金はたまったし、食うには困らなかったが、「意味」がない気がしていた。「今、この世界で、生存している価値」が無いと感じたのだ。 このままだと、きっと、感情も感性もなくなって、躯となる…そんな気がして怖くなって、好きになれそうなことを、探し始めた。 結果として、趣味らしい趣味はまだ見つけられていない。 僕の、当面の目標は、「面白い・無駄じゃない」そう思える、時間の使い方ができる事柄を探すことだろうか。 そんな思考を巡らす間に、自宅のドア前まで着いていた。 スーツを脱ぎ捨て、昨晩作った、間に合わせの煮物(適当に冷蔵庫にあったものを和風味で煮ただけ)を食器にとりわけレンジにかける。面倒だったので、他にはなにも食べなかった。 先ほど脱ぎ捨てたスーツを拾い、ハンガーにかける、靴下は洗濯物をまとめたかごに放り投げた。 最近の僕は、食事を済ませ、シャワーを浴び、歯磨きを済ませると、早々に電気を消し、街灯に照らされる窓の外の景色をぼーっと眺め、時を過ごす。 たまにアルコールを飲むときは、シャワーを済ませた後で、冷蔵庫から缶を手に取り、同じように、電気を消し、薄暗い外をぼんやりと眺めてアルコールを摂取する。 ただただ静かな空間に、たまに冷蔵庫や近所の生活音が鳴る。 僕はただそれを黙って感じてる。 -数日後- 僕は、思い立って、いつもと違うルートで帰宅してみようと思った。 いつもはまっすぐに、脇道に入らずに帰るが、今日は、横の細い道に入ってみた。 知らない小さなお店が並んでいた。 ふと、足が止まった、そこには古めかしい、カメラたちが並んでいた。 僕は、夕日に照らされるそれをただ、眺めていた。 それが、数十秒だったのか、数分だったのか分からないが、ドアから人が出てきて、僕に話しかけた。 「入ってみるかい?」 僕は、無意識に「はい。」と返答していた。 店には、たくさんのフィルム一眼レフカメラが並んでいた。 その脇には、少し小ぶりなカメラが。 暖かな笑顔の高齢な男性(おじさん)は、「気になるのかな?」などと、僕に話しかけ、ショーウィンドウのカギを開けてくれた、僕は恐る恐るその1台を持ってみた。 しかし、僕には、まったくどう扱うのかわからず、持つだけ持って、定位置に戻した。 するとその男性は、僕に初めてなのか。と聞いてきた。 無言で僕がうなずくと、男性は僕に、脇にある棚から、少し小ぶりなカメラを出し、僕に差し出した。 男性は、暖かな笑顔で、丁寧に使い方を教えてくれた。 ボタンを押すと、乾いたシャッターの音がした。 液晶には、温かい笑顔の男性が、ぶれた状態で映し出された。 この日、僕はカメラに出会った。 男性は、笑顔で僕に言った。 「君が最初に手にしたものは、はじめてカメラを始める人には、少々難しいかもしれない」と。 男性は続けて「今、君に渡した方のカメラになれたら、またおいで、その時は、君が最初に手にしたカメラを扱えるようになっているはずだよ」と。 その日から僕は、趣のある時の流れを、切り取り、保管するようになった。 最初にとった、ブレブレのおじさんの写真は、今も僕の手元に残っている。 僕は、時間と季節を感じるあの感覚を、カメラとともに、切り取り始めた。 一瞬一瞬が、僕の感性を、視覚化して行く。 時がいくらか経って、僕は、今も変わらずに、写真を撮っている。 写真集に乗るような壮大な景色や、どこにあるのか分からないような絶景ではなく、見る人によっては、どうでもいいような、時間のかけらを、ひとつひとつ僕の記憶にとどめるように、感じるままに。 -ある秋- 僕は、ある秋に、転職した。 はじめは、あの写真屋のおじさんのところでアルバイトをしていた。 そこからさらに数年が経過し、僕にきっかけをくれたおじさんは、写真の中だけの人になってしまった。 僕は、この店をリフォームし、展示ブースを作った。 そこには、あの下手だったころのシャッター速度があっていない、おじさんブレたの写真がいまもある。 時間は過ぎれば、戻せない、あれだけ、繰り返しのような毎日を送っていた僕は、いつからか、繰り返さない時間の中に居るようになっていた。 カメラを手にしてから、まったく同じ時間がないことに気づかされたのだ。 それと同時に、今が永遠に続かないことも。 僕は、小さなこのカメラ店で、何気ない日々を撮っている。 繰り返しの時間に囚われることなく、毎日の中にある今日だけの時間を、見つけることができたのだ。

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時の魔法

流れる雲

何気ない毎日の中に、 大切なものを見つけられていますか。 ある時 空を見上げた 空は 雲一つない 快晴だった 綺麗な星が 空一面に広がっていた 僕は、星には詳しくない。 でも、四季折々の空気や、その時の景色を眺めるのは好きだ。 少し先に、足早に歩く君。 「ねぇ 置いてっちゃうよ?」 そう言われ、僕は、足早に追いかける。 1月の空。 来年も同じようなことをして、過ごすんだろう。 何気ない毎日、君がいる毎日。 数m先に、古びたアパート。 解錠音が響く。 この町は静かだ。 「まだ~?締め出しちゃうぞ。」 屈託のない無邪気な笑い声。 「凍えちゃうよ。勘弁して。」 ちょっと上ずった声で返す。 ドアノブが冷たい。 パチッとスイッチを押す音とともに、ともる明かり。 すこしオレンジがかった蛍光灯。 この明かりが僕は好きだ。 寒い冬にはちょうどいい。 コートを脱ぐ、ハンガーにけて、コンロの前に立つ。 君は…。 あれ、何してるんだろう。 姿の見えない君に、大きめの声で、 「ストーブつけていいよ。寒いだろ。」と言った。 応答がない。 心配になり、隣の部屋に行くと、この寒いのに窓が僅かに開いている。 自由な奴だ。この寒いのにベランダに出たようだ。 「なにしてんの。中入りなよ。寒いじゃんか。」 すると君はこう言った。 「えぇ~。君だってさっき、空を見て、突っ立っていたじゃない。」 「いやいや、なにも、家についてから、暖房も付けづにベランダに行かなくてもいいでしょ(笑)」 ちょっと不満げな顔を向けられた。 「何見てたのかと思って。さっき、君が眺めていた空を、私も見てみたんだ。」 僕はなんて返したらいいのか分からず、少し固まる。 「別に、何かを見ていたわけじゃないよ。ほら、あるじゃん、季節を肌で感じる的なやつ。」 僕は、特に何かを凝視していたわけではない。 冬らしさを感じていた。 「なんじゃそりゃ。変人くん。」 君は、たまに僕をこう呼ぶ。 何の変哲もない、繰り返されるような毎日の中に、ホッと一息つくような、わずかな時間。 僕は、そんな時間が好きだった。 そんな僕を見ては、真似をして何かしらの報告をしてくる君。 仕事以外の時間、何をしていたかというと、多分、大した事はしていなくて、君の横顔や後ろ姿を眺めながら、季節を感じていたり、今日の君の足取りを見たりしていたような気がする。 気がづくと、いつも君は、僕より先を歩いていて、のんびり歩く僕は、君を追いかけていた。 あれから時が経って、僕だけは、今も変わらず、代わり映えの無い毎日を過ごしている。 もう、この文脈で、「僕」と「君」の関係がどうなったのかは、お察しされるのではないでしょうか。 世間では、すれ違いとか言う言葉で表現するのでしょうけど。 僕は、それとは何となく異なる気がしている。 僕も君も、2人の関係に疲れたり、飽きたりした訳ではなかったと思う。 誰か他の人を好きになったわけでも。 仕事が原因でもなかった。 「どうしてか」と考えたけれど、やはり、理由にあたるものは無かった。 切り出したのはどっちだったか、それも曖昧で、自然と距離が空いたような気がする。 今、君は、何をしてるのか。 実はお互いに何も知らない。 僕がどう過ごしているかも、君がどうしているのかも、連絡を取らなくなったから、知る由もない。 といった具合。 僕の中の君の姿は、僕に背を向けて歩く背中。 いつまでも変わらない背中が、僕の中にずっとある。 どんな顔で、僕の前を歩いていたのだろう。 思い返すと、僕はいつもマイペースで、 君もそうだった。 気がづくと、僕より先を歩いていて、置いて行かれるのはいつも僕だった。 今も、チャットの履歴は残ったまま。 当時、他愛ない会話が、少しずつ減って、 気が付くと、君からのメッセージも来なくなっていた。 もちろん、君が僕の前を歩くことも。 自由な君は、きっと深く考えず、気になるものでも追いかけたのだろう。 僕を振り返る、君の顔が、ふと思い出される。 きっと子供が何かに熱中して、周りが見えなくなるように、僕より、興味深い何かに出会ったんだろう。 そんなことをぼんやり考え、消す理由もないので、そのままチャットの履歴は残した。 僕はポケットに手を入れて、去年と変わらぬ帰路に立つ。 今日の空は曇っていて、星は1つも見えなかった。 自宅のカギを解錠し、自室に戻る。 君が置いてったものはすべてそのままだ。 帰って来るとは思っていないし、とっておく意味も特段無いのだけど。 特に捨てる理由も見当たらなくて、片付けるのも面倒だし、そのままになっている。 恐らく僕の部屋に散らばった物のほとんどは、生活する上では、必要のない物ばかりだろう。 そして半分以上が君が放置していった物のような気がする。 テレビをつけ、台所に立ち、鍋の素を入れて、適当に切った野菜を突っ込んだ。 テレビは、「年末も間近になりましたね~」などと言っている。 そうか、もう年が明けるのも時間の問題か。などと思った。 布団に入っても、なかなか温まらず、ひんやりした布団の中で、眠りに落ちた。 季節がめぐり、年月がたち、僕はいくつかの仕事を経験し、今はしがないサラリーマンになった。 あれから何度春がめぐって、冬が来て、夏が終わったかわからない。 スマホは機種変更を重ね、引き継げるデータは引き継いできたが、とうとう君とのチャット履歴は、消えていた。 同僚から、資料はまだかと催促のメールが入っていた。 ぼんやり、何度目かの春の木々をみつめ、ふわっとした雲を眺めていた。 横断歩道で信号が変わる案内が鳴り、スーツの人々はせわしなく歩く。 くだらない毎日を延々と過ごしていた。 周りの人間は、しきりに将来の話をしているが、僕にとってはどうでもよかった。 だれか気になる人はいないのか。いくつまでに結婚したい。そんな話がが周りを舞っていた。 僕は最近、趣味をみつけた。 昔は何にも興味がなく、ただただ君がいた景色を記憶している。 最近は、その景色を写真におさめて歩いている。 君のいない見慣れた景色が、写真におさめめられていくが、写真を見るたび、君が写っている気がした。 忘れられない訳ではなく。 何故かたびたび脳裏に浮かぶ。 同僚に昔、一緒にいたやつがふわっと消えた話をしたら、お前そいつに恋していたのか? と問われ、僕がしどろもどろになったのを思い出した。 好きとか、恋とか、愛とか、そういった感情が当時あったのかどうか、僕にはいまだに分からないのだ。 同僚が言ったのは、本当の恋をみつけると、きっとその人のことなど記憶から消え去るはずだと言うこと。 僕は別に、彼女を思い出したくないなどと、思ったことは無かった。 同僚は気さくで、明るくて、面白いやつだった。 よく、飲みにも言った。 けれど、あいつは酔うと、どうにも面倒だ。 ずっと自分の恋人の話をしてくる。 聞きたくないわけではないが、特段面白くもないから、時が過ぎるのをただ待った。 同僚は後に、その恋人と結婚した。 最近は、飲みに誘われなくなった。 そんな、世界にありふれた毎日を送っていると、ある日、「電話番号で追加されました」と、メッセージアプリから通知が入った。 そういえば、機種変更をしてから、設定を誤って操作して戻していなかった気がする。 どうせ、どうでもいい内容だろうと、拒否ボタンを押そうとしたのだが、ニックネームではなく、もろに本名で書かれているその名前に、拒否を押そうとした、指が止まった。 だが、なぜ、今頃になって、追加されたのか、見当もつかなかった。 この日僕は、上司に怒られた。 初めて仕事でヘマをしたのだ。 その日の夜、僕は呆然と天井を見つめながら、風呂に浸かっていた。 就寝前、僕は意を決して、君の名前のアカウントを友達追加することにした。 なんだか、寝た気のしない夜だった。 そのあと数日、覚悟をしていたのに、何の連絡もなく、拍子抜けした。 1週間くらい経過した頃、一通のメッセージが来た。 「今、どこに住んでるの?」 僕は戸惑った、返信をしたら、押しかけられるだろうか。かと言って嘘をつく意味もない。 だが、あの時のままのこの部屋を見せる訳にもいかない気がした。 なんと返したらいいか分からず、とりあえず出勤することに、この日は金曜日だった。 とりあえず、仕事を終え、コンビニに立ち寄り家に帰ることにした。 まだ、返事は返していなかった。 家の近くまで来て、僕はポケットに手を入れて、鍵をゴソゴソ探しながら歩いていた。 すると、道の脇の、暗い一角から声をかけられた。 「あれっ、もしかして、〇〇くん?」 僕は、飛び上がったんじなゃないかと思うくらい、驚いて、素っ頓狂な声を上げた。 「ひぇ、あのッ!?そうですが!?」 まさか、もう何年も前に会わなくなったきりの人間が、家の近隣にぬぼっと立ってるなんて思いもしない。 君は、僕の知っている君からだいぶ変わっていた。 やんちゃで、無垢で、天然で、元気しかないような、「君」ではなかった。 確かに、同じ人物で、僕の彼女だったと思われる人物だ。 けれど、僕の知ってる「君」とはだいぶ変わっていた。 念の為僕は、確認した。 「…。あ、あの…、〇〇さん…?」 君は言った、「なんにも変わってない、間違いないと思ったんだけど、もしも違ったらって、念の為(笑)」 「まだここに住んでたんだね。越してたらまずいよなぁ〜他人の家の前にいきなり居たら、ただの不審者だよな〜。って、ここまで来て、どうしようか悩んでいたんだけど。」 その表情は、昔の屈託のない笑顔を、無理やり作ったような、顔だった。 「あ、あぁ。よく覚えてたね。メッセージ返信出来なくてごめん。仕事忙しくてさ。とりあえず、寄っていきなよ」 僕は内心、部屋の中を見せるのは非常にまずいと思っていたが、ここまで来た君を追い返す訳にも行かなかった。 その晩、君の置いていったものだらけの部屋に、君が来た。 君は、それを見て、何を思ったんだろう。 君にビールを渡し、僕は残ってた日本酒を飲んだ。 君は、僕に何も話さなかった。 そして、いつ来るとも、来ぬとも言わず、 帰って行った。 その日を境に君から、メッセージが数日に1度くらいの間隔で来るようになった。 なんの他愛もない、普通の会話だ。 ただ、君の今の暮らしのことは何一つ、話してくれなかった。 過去の話と、今日食べたものとか、見たものとか、そんな内容だった。 君とまた話すようになって、1ヶ月くらいした時。 また、唐突に、君が僕の家に来た。 チャイムが鳴って、ドアに向かうと、君のすすり泣きが聞こえた。 僕は、黙って、家にあげた。 君は黙って、ビールを飲んだ。 次の日、僕らはスーツのまま目覚めた。 とりあえず、気晴らしに散歩しに出ることにした。 君は、僕の家に置いていったジャージを着ている。 2人で、少し肌寒い中、何故か、歩きながらカップアイスをほじくっている。 キンキンと頭に染みる。 少しして君が、口を開いた。 それは、僕からは到底想像もつかない、チャレンジャーの冒険談。 僕の知らない君がいた。 何となくで生きてきた僕に、君を励ますことなどできやしない。 壮絶な日々を過ごしたのだろう。 僕は、夢とか、希望その物が無かった。 空っぽの人間で、君は、僕の真逆だった。 短絡的で、楽観的で、元気で、天然な君は、僕には眩しく見えていたけれど、君にはやりたいことと、真意があった。 貫きたいことがあったんだろう。 どうやら、一般社会は君の存在を否定したらしい。 僕は、嫌なことから目を背け、なんとなく流されるがままに過ごして、人に嫌われないよう、周りから浮かないよう、ほぼ、何も考えないで過ごしてきた。 その反面、なんの魅力もない、透明人間みたいな人間になったわけだけど。 なんとなくだが、分かる。 君は、納得のいかないことはしなかったし、真意を曲げたり、他人言いなりにはならなかった。 思うところあって、自分の心に素直に生きる君が、僕は羨ましかったし、そんな君だから、ずっと見ていたかったのかもしれない。 それなのに、世界は君を壊した。 僕は、なんだか腹が立った。 細かく全てを話したら、途方もなく長くなりそうだ。 簡単にいえば、君らしく生きた結果、君は社会に壊された。裏切られたって訳だ。 君の口から、漏れ出た世界の話は、僕の想像を遥かに上回った。 一時、君は、夢を掴みかけ、世間に認められ、憧れの目で、皆に見られていた。 それなのに、そんなことかといったような小さいことをきっかけに、世間は君を批判し、君を壊した。 あの頃の君はもう居ない。 君を壊した世界を 僕は、許せるだろうか。 君はまた、僕と過ごすようになった。 けれど、君はいつも僕の隣を歩いてる。 ふと、君の顔を覗き見る うつろな君の横顔は、何かを失ったままな気がする。 ただ、たまに、僕のカメラを覗き込んで、何を撮ってるのかと聞いてくる。 君は決して、写真に写りこもうとしない。 君とすごした時は、あっという間に過ぎ去った。 僕と再び暮らし始めた君は、屈託のない笑顔を見せなかった。 たまに、微笑む君の顔が、僕は途方もなく寂しい。 僕は君のとなりで、独り言ばかり話した。 君はそれを黙って聞いていた。 けれど、君は、去年の冬に、雲になった。 どこにでも行ける、ふんわりとした雲に。 僕の隣から旅立った君は、今、どこを旅しているだろうか。 何気ない毎日に 君とすごした毎日に 季節と共に、コロコロ変わる君の表情と、屈託のない笑顔が 僕にとって、途方もなく、とてつもなく、大切だった。 その1分。1秒。 君の忙しない表情を。 声音を。 きっと忘れはしない。 夏らしい厚い曇 青々とした空を ゆっくりと流れる雲 君は 時の流れに身を委ね 空と共に流れているのだろうか。

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流れる雲