tawashi
8 件の小説一生の後悔で涙が止まらない…
私は二人目を妊娠した。 一人目の長男もまだまだ目が離せないが、二人目ができたのは嬉しかった。 でもそれと同時に、不安も押し寄せる。 長男を見ながら、家事をしての妊娠生活は無事に送れるのだろうか。 心配していた悪阻は一人目の時よりはずっと楽だった。 水は普通に飲めたし、決まったものなら食べることもできた。 なんとか平穏に妊娠生活を送り、予定日より九日早かったが無事に次男を出産した。 入院する事で長男と離れるのが心配で仕方がなかった。 昼間は実家の母が見てくれて、私の病室で待ち合わせして、義父が仕事が終わると迎えにきた。 長男は泣きもせず、なんとか過ごしているようだ。 良かった。 退院後一ヶ月間実家で長男と次男で過ごし、その後また自分の家に帰った。 二人を見ながらの家事はやはり大変だった。 なかなか進まない。 でも仕方がないことだと割り切るようにした。義父が帰ってくるまでに終わっていればいいのだから。 私は赤ちゃんの次男の世話にどうしても集中してしまうこともある。 それでも長男からは目を離さないように、愛情不足にならないように必死だった。 それでも、長男がグズグスしたり、言うことを聞かなかったりすると義母に度々愛情不足と言われた。 私はそれが本当に嫌だった。 まるで自分が親として否定されているような気がした。 私だって必死で家事と子育て頑張ってるのに。 愛情不足だというなら、家事の負担を減らしてくれ!心底そう思った。 長男は成長と共に少しずつ、個性が現れてきた。 人見知りはなく。公園でも初めて会った人に自分から話しかけて一緒に遊ぼうとする。 しかし、相手からは変な目で見られる。 他にも時々癇癪を起こして手がつけられなくなる。 食べ物も決まった物しか食べず、色々とこだわりが出てきた。 保健所で健診があると相談員さんにも相談していた。 その時に、こういう時はこうしてみてとか色々教わった事を試したりしたいのに、義両親がまた色々言ってくる。 それでも私は子どもを守る為に、私が親なんだからあまり口出ししないで欲しいし相談員さんからのアドバイスもあるから見守って欲しい!と主張したかったのに、 私はここでも自分のいいたいことが言えない腰抜けだった。 結局戦えず、自分を押し殺してしまった。 そして、私は最低だ… 癇癪を起こした長男に手を出してしまう。 頭を叩いてしまった。 他にも次男がなかなか寝てくれなくて、そんな様子を見て長男がお兄ちゃんらしく相手をしてくれていたのに、私はその時義両親で疲れ果てていて長男は何も悪くないのに、うるさい!と手を叩いてしまった。 本当に最低だ… 長男のびっくりした顔を見て我に返り、長男を抱きしめてごめんねと何度も謝った。 なんて事をしてしまったんだろう。 思い出す度に涙が溢れて止まらない。 心の中で長男に謝る。そして自分をまた責める。 私は時々そうなってしまい自分の行動に対して制御できなくなる時があった。 一生の後悔だ。 20年近くたった今でも思い出すと申し訳なさで涙が溢れてくる。 長男は幼稚園に入園すると、集団行動が苦手らしく泣いて行きたがらない。厳しいところで地元では有名な幼稚園だった。 私は無理に行かせたくなかった。 でもこの土地に住んでいる以上は、この幼稚園に入園させないといけない雰囲気があった為に選択肢は無かった。 嫌がる長男を見て義親は無理にでも行かせないと慣れないでしょと言ってくる。 それは愛情不足に繋がるとは思わないのか? 長男はどんどん個性が出てきてこだわりが強くなっていき、成長と共に癇癪もひどくなっていった。 私は長男をこれからどう育てていけばいいのかわからなくなっていた。 実家の母に相談すると、生活は大変だろうけど、あなたが精神的に不安定だとそれが伝わってしまって長男に現れているんじゃないかと言われた。確かにそうなのかもしれない。 私は益々自分の感情を抑える様になっていった。 母親ってなんなんだろう…。
同居の再開と子どもの成長、そして夫の変化
出産後、一ヶ月が経ち、 夫と義両親が待つ家に帰って来た。 嫌で仕方がなかった。 子育てしながら、完璧な家事をこなさなくてはならない。 おむつは布おむつ。 苦痛だ。 紙なら捨てれば終わりなのに。 洗濯が大変だし、しょっちゅう交換しなくてはならない。 回数が多過ぎて、嫌になり、誰もいない昼間はこっそり紙オムツにしてバレないように捨てていた。 夫のお兄さんは十ヶ月でおむつを卒業したそうだ。 布おむつだからおむつが早く取れるんだと何回も言ってくる。いい加減聞き飽きた。 本当に十ヶ月だったの? まだ歩かないのに? この家は洗濯機が今時珍しく二層式だった。 あと、洗い物や料理をする時はなるべくお湯ではなく水でと言われていた。 ガス代が高いからと。 真冬は本当に辛い。あまりの冷たさに手が動かなくなり体が震えてくる。 耐えられず、昼間はお湯を使っていた。 この親とやっていく自信がなくなってきた。 ちょうど同居を再開した頃、義父の車が廃車になった。そしたら、私の車を自分が乗ると言い出した。残りのローンも自分が払うからと。 え?それじゃあ私はどうやって買い物や、病院へ行けっていうの? 電車はないしバスも一日に数本しか走ってないのに。タクシーを頼るしかない。お金がかかるじゃないか。 歩いていける範囲には小さな商店しかなかった。 商店で子どもを連れて買い物していると、 必ず声をかけられる。さすが小さい集落。 そして、決まって言われることが、 「どこの嫁さんだかね?」 名前と家の場所や屋号を言うと、 みんながすぐに理解する。 「いい人んとこに嫁にいったね。お父さんもお母さんもいい人でしょう?」 そう言われることも多かった。 私は笑って誤魔化したが、 「とんでもないです。あの人達は本当ひどいんですよ。本当に困ってます。出て行きたいです。」 と言いふらしたかった。 毎日夕飯の支度が本当に大変だった。 抱っこしたまま料理したり、泣かせたまま家事をする。洗濯干したり、掃除したり。 近所の人に虐待してると思われなければいいけど… 生後二ヶ月を過ぎるとまだ首は座ってないが、 おんぶして家事をするようになった。 とにかく私とくっついていれば泣かない。 それでなんとか家事をこなしていた。 だんだん成長してくると、 お座りができるようになり、ハイハイ、掴まり立ち。あっという間に大きくなる。 なんでも口に入れるようになり、 ますます目が離せない。 トイレも一緒に連れて行っていた。 離乳食も頑張って作っていた。 でも好き嫌いが激しく、決まったものしか食べない。 赤ちゃん用のお煎餅が一番好きだった。 頑張って離乳食を作っても結局お煎餅を食べたがる。 ちょうど一歳の誕生日を迎える頃、歩けるようになった。 よちよち歩きが本当に可愛くて愛おしい。 言葉を少しずつ覚えてきて、たくさんお話しするようになってきた。 子どもが見せてくれる笑顔に何度も救われてきた。 テレビも好きで、子供番組やアニメを見せていると義父が来て、 「見せ過ぎだと、途中でも消されてしまう。」 まだ30分程しか経っていないのに。 テレビじゃなくて絵本の読み聞かせをしろと言ってくる。 楽しく見ていたテレビを消されて、子どもは泣く。 1時間以上昼寝をすると寝すぎだと言われる。 なんでも口を出されて、一方的にダメだと言われたりストレスだらけだった。 夫に時々相談しても、 「気にするな。」 しか言わない。 まともに話を最後まで聞いてくれない。 あんなに一緒にいたいって言っていたのに、私が困っていることは無関心かよ。 2回ほど話したけど、まともに聞いてくれないので夫と話すのを諦めた。 もう何か相談するのはやめよう… 一緒に買い物に行っても一緒に行動することはなく、私は子どもを抱っこしているのに荷物も持ってくれない。 一緒に行動しないのにどうして一緒に出かける必要があるの? 結婚前はあんなに優しかったのに、本当に同一人物だろうか。 いつからこうなっちゃったんだろう。 私が何をしたのだろう。 だんだん心が離れていっている気がしてきた。
慣れない子育て
無事に出産した私は一ヶ月間実家で過ごすことになっていた。 子育ては全てが初めてのことで戸惑うことばかりだった。 一、ニ時間おきに泣き、おむつ交換と授乳と抱っこの繰り返し。 時々なんで泣いているのかわからない。 寝たからと布団に置くと起きてまた泣く。 やっと寝てくれた時には、起こさないように私はかなり神経質になっていた。 毎日、寝不足の日々。 寝れない事がこんなに辛いことだとは思わなかった。 抱っこしたまま壁に寄りかかって寝ることもしょっちゅうだ。 時々母が交代してくれて、その間に私は睡眠を取ったり、お風呂に入ったり食事を取ったりしていた。 寝不足と疲れで、精神的にもだんだん追い込まれていった。 母にはかなり助けてもらっているけど、 夫が一緒にいる方が、心強いのかな。 そばにいない事の寂しさがだんだん募っていった。 でもよく考えると義両親がいる家には帰りたくない。また自由が奪われる。 このままずっと実家にいたい…これが正直な気持ちだ。 同居を後悔する日々。 ある日夫から電話が来た。 夫も寂しいようで、早く帰ってきてほしいという。 近いんだから、会いにくればいいのに私の実家には寄りつかない。 寂しさから追い込まれていたのか、 何を言い出すかと思えば、 「本当に俺の子だよね?」 と言い出す始末。 あまりの衝撃に私は言葉がすぐに出てこなかった。 その後、どんな話をして電話を切ったか覚えていない。 私は命懸けで猛烈な痛みに耐えて産んだのに! 必死で育ててるのに、こっちの苦労も知らないで何を言い出すの⁈ 悔しさと寂しさと疑われた悲しさ… すごく複雑な気持ちになった。 時の流れは早いな。 もう一ヶ月が経とうとしている。 そろそろ帰らないとか。 帰りたくない。 辛い日々が目に見えている。 ずっと実家にいたい。 同居なんてしなければ良かった。 毎日そればかり考えるようになっていた。 そんな毎日だけど、 子どもは、やっぱりかわいい。 寝顔を見てると癒される。 私は20歳になったばかりで、自分もまだまだ精神的に子どもなんだなぁと思う時がある。 母と過ごしていると、子どもに還ってしまう。 でも、我が子を見ると、しっかり大人にならなくてはと思う。 私がこの子を守っていかないと。 そう思っていたのに、 義両親と過ごすことで自分を失い、 私は、後に、 自分の行動で自責の念にかられることとなる。
いよいよ出産へ
妊娠して悪阻で辛い中、なんとか結婚式を終えた。 体調はあまり回復していなかったが、仕事も復帰した。 なんとかこなしていたが、やはり辛くて大変。 義両親に仕事は辞めて専業主婦で子育てに専念すればいいと言われた。 確かにこんな状態では会社にもずっと迷惑がかかる。 相談の結果、退職することになった。 専業主婦になってからは、義両親はまだ働いていたので、家事を全て任された。 それも体調が悪い中なかなか大変だった。 義父は倹約家だった。 それに、自分が仕事から帰ってくるまでに夕飯を作り終えていることを要求してきた。 夕方に用事があれば昼間のうちに作り終えていないといけない。 電気、ガス、水道もとても節約していて、エアコンも自由に使えなかった。 真夏は本当に大変だ。午前からエアコンを使うことは許されなかった。 お金に余裕のある家なのに、お金がない、自分たちは貧乏だと言われるのがすごく嫌だった。 本当の貧乏を知らないくせに。 自己破産をした両親を持つ子の前でよく言えるなと、どうしてもそう思ってしまう。 子どもが生まれてからもこんな生活なら出ていきたい… 私は里帰り出産を希望した。 里帰りといっても、時間にして車で15分程の所に実家はあった。 臨月になり実家へ帰った。 父は仕事も順調でお給料も月給で変動はあるものの、母と祖母と順調に暮らしていた。 少しずつお金も貯めて、お金を貸してくれていた友人達に順番に返していた。 実家にいる間、暖房も電気も水道も自由に使えて幸せだった。 なんて快適なんだろう。 義両親のいる家には帰りたくなくなった。 父はだいぶ変人だったが、新しい仕事についてからだいぶ穏やかになっていた。 気難しいところは相変わらずあるが、私に対しては将来の夢を奪ってしまったと負い目があるようでとても気をつかってくれていた。 まるで別人になっていた。 実の両親の暖かさが身に沁みた。 いよいよ出産予定日3日前の夕方、 母とスーパーで買い物している時に、陣痛が始まった。 少しずつ感覚も狭くなってると思いきや、間が開いてしまったりしていた。 そしてついに夜が明けてしまう。 病院へ連絡してみると、もう入院しようということになった。病院へ着いて、しばらくすると、だんだん陣痛間隔が狭くなってきた。 でもなかなか8分から縮まらない。 午前中に入院してから、夜になってやっと5分間隔程になった。 陣痛で苦しむ中、実家の母がずっと付き添って私が楽になるように腰を押したりさすったりしてくれていた。 母も大変だったと思う。 少しずつ、少しずつ、陣痛の間隔が狭くなっていきそれと同時に痛みもどんどん強くなる。 とてつもない痛み… 何時になっていたのかわからないが、 痛みに耐えることに疲れていた。 話す余裕もない、声も出ない。 立ち会い出産ではないので、心細い。 早く終わって… 助産師さんのいう通りに呼吸したり、いきんだりしているつもりだが、疲れ果てて力が入らない。 もう嫌だ… 「あともう少しだよ!頭見えてるよ!」 助産師さんのその言葉で、 やっとここまできた、早く出てきて!頼む!と願った。 そしてついに、 「もう生まれるよー!」 「オギャー!」 やっと生まれた!というより、まず私が思ったのは、やっと終わった…だった。 時計は午前2時を回っていた。 生まれてすぐ、私の胸に我が子を乗せてくれた。 この時の私は、喜びや感動より疲労が勝っていた。 身体を綺麗にして、服を着せてもらった我が子を私の腕の中へ連れて来てくれた。 時間が経つごとに、感動へと変わっていった。 小さい…かわいい…。 生まれてきてくれてありがとう。 そして、お母さん、 身体がまともでないのに、ずっと寝ずに付き添ってくれてありがとう。 母には感謝しかなかった。
まさかの妊娠…
私には付き合っている彼氏、圭一郎がいた。 付き合い始めてしばらくたった頃、妊娠発覚。 私はまだ19歳。 社会に出て働いているとはいえ、まだまだ子どもだった。 付き合っている間、彼は私をとても大事にしてくれた。 妊娠がわかって、結婚する事になり、 これからさらに幸せが待っていると思っていた。 ところが… 圭一郎が提案というか、お願いされたのが、彼の親との同居だった。 同居でいいイメージが全くない。 何で同居? ここでも結局、自分の言いたいことを言えなかった。 まだまだ、お金の面で落ち着かない両親を置いて出るのは心苦しかった。 でも、自分が招いたこと。 仕方がない。 母はただただ心配していた。 まだ19歳の未成年の娘を手放すのだから。 結婚が決まってから、ある日体調を崩して高熱が出た。 とにかくひどい頭痛。まともに歩けない。トイレに行くのがやっとだった。 このままでは心配になり、病院へ行くと即入院だった。 食べれず点滴生活。 2週間ほどの入院だった。 徐々に回復して、外出許可も出て、 圭一郎と一緒に婚姻届を出しにいった。 これでやっと結婚したわけだけど、私の体調の事もあり退院後も同居するのを見送っていた。 退院してから一ヶ月が経った頃、圭一郎の強い希望でついに同居することになった。 同居してから数日後、生活環境が変わり、食事も味付けも全てが変わり、 私にはストレスだらけの日々だった。 そのうち、悪阻が本格的になってきた。 食べても吐いてしまう。 匂いにとにかく敏感になり、 ついにただの水も、すごい臭いものに感じて飲めなくなった。 胃の中は空のはずなのに吐き気がひどい、トイレにいっても何も吐けない。 水が飲めない。お茶も飲めない。 さすがにこれは大変だと思い、病院へ行くとまた即入院だった。 何でもっと早く来なかったのかと先生に怒られた。 初めての妊娠で、何が正常で何が異常事態なのかそんなのわからない。 一日中点滴の日々。食事を出されても全く食べれない。 人間を産むってこんなに大変なのか… 自分の身体が妊娠したことで、色々変化していき、自分の身体じゃなくなる様な…とても不思議な感覚があった。 無事退院して、悪阻が落ち着いて安定期に入ってからもずっと精神的に不安定だった。 生活環境、自分の身体、色々な変化についていくのが大変でストレス満載。 同居で義両親との生活。 考え方も違う。 子育てについても意見してきて、本当に嫌だった。 今時、布おむつを要求してくる。 なるべく負担を減らしたいのに。 しかも自分で縫えと… ミシンを持ってないので全て手縫い。 苦痛でしかない。 これから上手くやっていけるのだろうか… 圭一郎に相談しても、 「気にするな。」 しか言ってくれない。 この頃から圭一郎が時々今までと違うなと感じる事が時々あった。 精神的に不安定になっていた私は孤独感に襲われて、一人で泣くことも度々あった。 入院中に、義両親から結婚式の話が出て、私の実家はお金の余裕もないし、呼べる様な親戚もいない。そういう事は苦手だからやらなくていいと言ったのに、会場を予約されていた。 私の気持ちや体調はまるで無視。 お腹の子どもは愛おしいけど、結婚してたった半年くらいですでに同居を後悔した。 幸せになれると思っていたのに… でも…自分にとって、幸せってなんだろう? 幸せを求める自分がいるが、自分にとっての幸せがよくわかってない自分もいた。 結婚式の招待客は近い親戚と圭一郎の友達10人程。 私の友達はみんなまだ学生で県外生活だったし、結婚式前ギリギリで退院し、まだまだ体調悪い中で友達に連絡なんてとても無理だった。 結婚式当日のこの日も、吐き気、だるさなどやはり体調が悪かった。我慢しながらなんとか耐えていた。 中盤になって料理が並んだら、限界が来て、 会場の外へ出てロビーのソファで横になった。 早く家の布団で寝たい… 我慢の連続で逃げ出したくなった。 自分の意見、考えをもっとありのまま言えればいいのにどうして言えないのだろう。 自分を責めるばかりだった…
結婚願望がなかった私が結婚するなんて…
私は高卒で就職した。 望んだものではなかったが、親が自己破産したのだから仕方がない。 これから家族のためにしっかり働かなくてはならない。 就職した先の同期には、高卒の人、大卒の人、中途採用の人など様々いたが、そこで夫の圭一郎と出会った。 同期のみんなで仲が良く、何度もみんなで集まっては食事や飲み会などがありとても楽しかった。 私はお金にそんなに余裕がないので、時々の参加だった。 圭一郎は同期の中で好きな人がいた。 でもその人にはすでに彼氏がいた。 私は同じ部署ということもあり、休憩が一緒になると、私に相談してきたりしていた。 何ヶ月かして、休みが一緒なら出かけないかと何度か誘われるようになった。 正直、仕事で疲れて家で寝ていたいと思う時もあったが当時の私は、相手から言われた事には逆らえない性格だった。 ある日の夜中、携帯が鳴り、着信画面を見ると圭一郎だった。 何かあったのかと眠気を我慢して出てみた。 そしたら、なかなか会話が続かない。 結局何で電話してきたんだろう。 もういい加減寝たいんだけどと思っていると、 好きだから付き合って欲しいと言われた。 ん? あなたは他に好きな人いましたよね? あれ?なんで? 思考が追いつかない。 頭の中はパニック。 そしたら、私に相談しているうちに叶わぬ恋は諦め、私を好きになったというではないか。 そんなに簡単に気持ちが変わるものなのかと疑ってしまう。 でも、私には断る勇気もなく、 「はい。」 と答えてしまう。 次の日から、彼はめちゃくちゃ私を大事にしてくる。 私は戸惑ってしまいうまく話せない。 今までの人生こんなに大事に甘やかされた事があっただろうか。 何でこうなってしまったのか全くわからない。 最初は戸惑いだらけで、どう接したらいいのか全くわからず、言われるがままに行動していた。 そんな私も、とても大事にしてくれる彼と一緒にいて少しずつ好きになっていった。 付き合い始めてから、しばらく経った頃だった。 そういえば生理が来ない。 妊娠検査薬を使ってみると、陽性だった。 まだ結婚もしていないのに、どうしよう。 一人トイレで大パニックに陥った。 とりあえず、病院へ行って確かめないと… そして、圭一郎へも連絡した。 病院で診察してもらうとやはり妊娠していた。 どうしよう。 とてもまだ子どもなんて育てていけない。 私はまだまだ家のために働かなくてはいけないのに…。 圭一郎は電話では戸惑っていたが、会って妊娠確定だったと写真も見せて報告すると、 「結婚しよう。 おむつも替えるし、お風呂も入れる。協力するから産んで欲しい。」 と言ってくれた。 私はその言葉を信じて、子どものためにも結婚することにした。 こんなに幸せでいいんだろうか、 結婚したら私は両親の様な結婚生活にはしないぞと思った。 きっとこれからもっと幸せになるんだ。 そう信じていた…この時までは…
結婚とは修行の始まりか…
私の父は、母に対して気に入らない事があると3ヶ月程口をきかないような人だった。 食べ物の好き嫌いは激しく、その好みも時々変化する。 母はいつもご飯の支度に悩んでいた。 父は本当にとても気難しい変人だった。 お金の使い方も酷かった。何度も車を買い替える。お金を勝手に親に借りて、母は姑からの連絡で初めてその事実を知る。 二人は親同士が決めた結婚だった。母には好きな人がいたようだが、親には逆らえず仕方がなかった。 私は父が嫌いだった。 母を困らせてばかりいた。母が苦労しているところしか見てこなかった。母が幸せな姿を見た事がない。 いつも我慢。食べ物、着るもの。家族みんなを食べさせて、自分は残りカスみたいな物を食べていた。 父は会社勤めが続かず自営業を始めた。 苦労が目に見えていた母は、大反対したが父はいう事をきかない。せめて自分は外に働きに出たいと言ったが父はそれを認めなかったそうだ。 結局、母も一緒に手伝い、お給料が出るわけもなく長年働いた。 そして経営がうまくいくわけもなく、結果は自己破産。散々色んな人に迷惑をかけた。 そんな両親を見て育ち、すっかり結婚願望はなくむしろ結婚しなくていいと思っていた。その方がきっと自由で幸せだと思った。 そんな私でも子どもは好きで、産みたいと思った。でもそれには相手が必要。 もし、子どもができたら絶対自分と同じ苦労はさせないと思った。 自分の子どもには好きな道に進んでもらいたい。 夢を諦めないでほしい。幸せになってほしい。 幸せな結婚をしてほしい。
この人生を決めたのは本当に私なのか…
私は何が目的で生まれてきたのだろう? 何か問題が起きる度に、不安と闘いながらこの問いが自分の中で繰り返される。 生まれる前に自分で人生を計画して生まれてくると言う人がいるが、信じたくない。 だって本当にそうなら、わざわざ苦労を選択するはずがない。幸せになることが人生の目的ではないのか。 父親が自営業を始めてからずっとお金の苦労が絶えない家だった。 借金したお金で我が家は何とか生活していた。 ご飯のおかずが生姜醤油で和えたワカメだけの日も多かった。 お米は知り合いから安く買う事ができた古米や古古米だった。 借金を繰り返す両親は、ついに私が高校三年の時に自己破産して無職になった。 私は夢を絶たれ、大学進学を諦めて進路を就職に変更した。 面接を受け、採用の電話がきた。嬉しさと同時にまたどん底に突き落とされた。 採用の条件が車通勤。私は免許を取るお金が無いことを正直に面接で話していた。 卒業までに何とかしなくてはいけなかった。残り半年も無い。 でもどうやってそのお金を用意したらいいのか。親は自己破産したからローンも組めない。借金もできない。 未成年の私はどうしたらいいのか。 車通勤でなくてもいい所を探すしかないのか。 電話を切って、隣にいた母に結果を伝えたが、同時に涙がどんどん溢れてきて初めて母の前で声を出して泣いた。 「何で私だけこんな目に遭うの?」 悔しさでいっぱいになり、世の中全てを恨んだ。 無職の両親は50歳を過ぎていて、再就職はなかなか厳しかった。 特に母は身体がボロボロになるまで働いていた為、雇ってくれるところは無く働く事を諦めた。 そんな母は、お金は無かったけど心優しい知り合いは多くいた。 困っている母を見て助けてくれる人が何人もいた。 私の就職の事を気にかけてくれていた人が、私の自動車学校の費用を貸してくれる事になった。しかも、働きながら返せる時に返してくれればいいとまで言ってくれた。 どん底だと思っていたけど、助けてくれる人達が私の周りにはいるんだ。 感謝の気持ちでいっぱいになった。 いつまでも泣いている暇はなく家族の生活の為に高校卒業までアルバイト代は全て生活費になった。 お金の苦労ばかり…どうして… 高校も中退かなと悩んだが、学校に相談して半額免除になった。そして、祖母に頭を下げて残りの半分は卒業まで払ってもらえる事になり卒業できた。 無事に社会人になったが、給料は家族の生活費となっていた。友達はみんな遊んだり好きな事をして楽しく暮らしている中で私はいつまでこれが続くのだろう…。 父は日雇いのアルバイトをしながら就職活動をしていた。そして自己破産から半年ほどたった頃に父のこれまでの経験と技能を活かせる仕事が見つかり、ついに正規雇用で働ける事になった。 再スタートを切り、まとまった給料が入るようになった事で、知り合いから借りていたお金も徐々に返していけるようになった。 私はお金を少しずつ好きな事に使えるようになった。 人生山あり谷ありというが、きっと高校生活は谷底だった。 そして就職後は、徐々に山を登っている。頂上はいつだろう。今度はいつまた谷底に落とされるのだろう。一度落ちてしまうと、幸せが訪れるとこんなに幸せでいいのかと思ってしまう。 その幸せに感謝するべきなのに不安感がずっとなくならない。 私は友達と呼べる人がほんの数人しかいなかった。その友達にも自分の本心や状況を話す事はできなかった。進路を変更したのも親が自己破産したからとは言えなかった。 私の人生はお金の悩み、孤独感、不安感がずっと消えない。 解放されたい。 本当に自分が選んだ人生なら、これから先死ぬまでどう計画を立てているのだろう。 というか、なぜこういう人生を選んだのか生まれる前の自分と話せるなら問いたい! 理由が知りたい! でも… 知ったら納得できるのか。 納得したらこれから先の人生は順調に進んで行くことになるのだろうか。