参丸壱

2 件の小説

参丸壱

よろしくお願いします。 人生の中で考えたことをまとめた小説を投稿しています

人間は何故、自分を自分だと思うのか

「人間は何故、自分を自分だと思うのか」 私は以前、人間という生き物が、ひどく不思議なものに思えて仕方がなかった。 それは、人間が感情を持っているからでもない。 笑うからでも、泣くからでもない。 ましてや、言葉を話し、道具を使い、文明などという大層なものを築き上げたからでもない。 もっと単純なことだった。 人間は、自分自身のことを「自分」と呼ぶ。 たったそれだけのことが、私にはどうにも不思議だった。 ある日の夜、私は部屋の明かりを消して、窓から外を眺めていた。 街には、無数の明かりが灯っていた。 一つ一つの明かりの向こう側には、人間がいる。 笑っている人間。 泣いている人間。 誰かを愛している人間。 誰かを憎んでいる人間。 明日の仕事を考えている人間。 明日の学校を嫌がっている人間。 そして、自分が何のために生きているのか分からないまま、ただ今日を終えようとしている人間。 私はその一つ一つを眺めながら、ふと思った。 「この人たちは、本当に自分の人生を生きているのだろうか」 もちろん、答えは「生きている」に決まっている。 少なくとも、法律上は。 戸籍があり、名前があり、身体があり、記憶がある。 その人間を指差して、 「これは貴方です」 と言えば、本人だって当然のように頷くだろう。 だが、私はそこに一つの疑問を持った。 では、「自分」とは一体、どこから始まったのだろう。 例えば、貴方が明日から突然、外国で生まれ育った人間になったとする。 話す言葉も違う。 食べるものも違う。 友人も違う。 家族も違う。 好きな音楽も違う。 嫌いなものも違う。 何を美しいと思うかさえ違う。 そんな人間になったとして、それでも貴方は「自分は自分だ」と言えるだろうか。 きっと言えない。 では、今の貴方を作っているものは何なのだろう。 記憶だろうか。 環境だろうか。 家族だろうか。 友人だろうか。 成功した経験だろうか。 失敗した経験だろうか。 誰かに言われた一言だろうか。 それとも、もっと単純に、生まれつき持っていた性格なのだろうか。 もしそうなら、少し妙な話だ。 私たちは、自分の性格を自分で決めていない。 生まれる場所も選べない。 親も選べない。 顔も選べない。 身体も選べない。 最初に覚える言葉すら選べない。 幼い頃に誰と出会い、何を言われ、何を好きになり、何を嫌いになったのか。 それらのほとんどすべてを、私たちは自分で決めていない。 それなのに、ある日突然、 「これが私です」 と言う。 私は、それが不思議で仕方がない。 もちろん、「だから人生には意味がない」と言いたいわけではない。 むしろ逆だ。 私は、その事実こそが、人間という生き物の面白さなのではないかと思っている。 人間は、自分で自分を作ったわけではない。 それなのに、自分を作っていく。 矛盾している。 しかし、その矛盾の中に、人間の美しさがある。 例えば、幼い頃に誰かから言われた言葉があるとする。 「お前には無理だ」 たったそれだけの言葉が、何年経っても頭の片隅に残ることがある。 本人は忘れているかもしれない。 言った側は、そもそも覚えてすらいないかもしれない。 それでも、その言葉を聞いた人間の中では、何かが変わってしまう。 挑戦することを怖がるようになる。 失敗を恐れるようになる。 あるいは、逆に、 「絶対に見返してやる」 と、誰よりも努力するようになる。 不思議だ。 同じ一つの言葉が、人間によってまったく違う人生を生み出す。 つまり、私たちは過去に影響されながら、それを材料にして未来を作っている。 だとすれば、人生とは「自分で作るもの」ではなく、 「自分では選べなかったものを材料にして、自分で作り直していくもの」 なのかもしれない。 私はそう考えるようになった。 そして、ある日。 一人の老人と話をする機会があった。 その老人は、長い人生を生きてきた人だった。 私は彼に尋ねた。 「貴方は、自分の人生を後悔していますか」 老人は少し考えてから、 「しているよ」 と言った。 私は少し意外だった。 もっともらしい人生訓でも聞けると思っていたからだ。 「何を後悔しているんですか」 と尋ねると、老人は笑った。 「もっと自分らしく生きればよかった」 ありふれた言葉だった。 だが、私はそこでまた疑問に思った。 「自分らしく」とは、一体何なのだろう。 老人は続けた。 「周りの人間が望む自分になろうとしすぎたんだ」 その言葉を聞いて、私は妙に納得した。 人間は、自分自身を作っているようで、実際には他人からも作られている。 親が望む自分。 友人が望む自分。 恋人が望む自分。 社会が望む自分。 そして、それらの期待を裏切らないように生きているうちに、それがいつの間にか「本当の自分」になってしまう。 では、一体どこまでが本当の自分なのだろう。 分からない。 きっと、誰にも分からない。 しかし、そこで私は一つの答えを見つけた。 「本当の自分」など、最初から存在しないのではないか。 人間は、完成した何かとして生まれてくるのではない。 毎日の選択によって、少しずつ自分というものを作っていく。 だから、昨日までの自分と今日の自分が違っていてもいい。 昔の自分が嫌いでもいい。 間違えてもいい。 誰かに影響されてもいい。 それを認めた上で、次に何を選ぶか。 そこだけは、自分で決められる。 私は、そこに人間の自由があるのだと思う。 完全な自由ではない。 生まれた場所も、過去も、才能も、身体も、他人の感情も、私たちは選べない。 それでも、その与えられたものをどう扱うのかだけは、ある程度、自分で選ぶことができる。 人生とは、白紙のキャンバスではない。 最初から誰かに絵の具をぶちまけられた、汚れたキャンバスなのだ。 その色を消すことはできない。 描かれてしまった線を、なかったことにもできない。 けれど、その上から何を描くのかは、まだ決められる。 そう考えると、私は少しだけ人間に優しくなれる気がした。 誰かが間違えている。 誰かが弱い。 誰かが臆病だ。 誰かが醜い。 誰かが愚かだ。 そう思ったとき、その人間が一体どんなキャンバスを渡されて生きてきたのか、私は知らない。 そして、それは自分自身についても同じだった。 私は、自分が自分を作ったと思っていた。 自分の考えも。 自分の価値観も。 自分の強さも。 自分の弱さも。 全部、自分のものだと思っていた。 けれど、本当は違った。 私という人間は、これまで出会った人間や、経験した出来事や、偶然や、失敗や、環境や、言葉や、数え切れないほどの「自分では選べなかったもの」によって作られていた。 私は、私を作った人間ではなかった。 私は、私を作り続けている人間だった。 その違いは、思っていた以上に大きかった。 そして私は、最後に一つだけ思った。 もし、人間が完全に自由な生き物ではないのだとしたら。 もし、私たちの「自分」というものさえ、他人や環境や偶然によって作られているのだとしたら。 それでも人間は、 「自分はどう生きるか」 と問い続ける。 答えを持っていないくせに。 未来を知らないくせに。 自分が何者なのかさえ、完全には理解できないくせに。 それでも人間は、明日を選ぼうとする。 私は、それこそが人間なのではないかと思う。 人間とは、 「自由だから選ぶ生き物」ではない。 自由ではないと知りながら、それでも選ぼうとする生き物なのだ。 だから私は、今でも自分自身に問い続けている。 「私は、本当に私なのか」 答えは、未だに分からない。 けれど、それでいいのだと思う。 もし答えが決まってしまったのなら、私はもう、自分を作る必要がなくなってしまうから。 明日の私は、今日の私とは違うかもしれない。 昨日まで嫌いだったものを好きになるかもしれない。 昨日まで大切だったものを、手放すかもしれない。 誰かに傷つけられるかもしれない。 誰かを傷つけるかもしれない。 そして、そのすべてがまた、私という人間を少しずつ作っていく。 人生が終わるその瞬間まで。 私はきっと、自分が何者なのかを完全には知ることができない。 それでも私は、 「自分が何者なのか分からない」 という不完全なまま、 今日もまた、自分の人生を選んでいく。 それで十分なのかもしれない。 人間という生き物は、最初から完成している必要などないのだから。

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信仰とは

人々は何故、神を信仰するのか 私は当時、暇を持て余すほどの時間と余裕があった。 ベッドの上に横になり、真っ白な天井を、何の意味もなくただ静かに見つめている。そんな時間を過ごしていると、普段なら考えもしないようなことが頭を掠めるのも、無理はないのかもしれない。 「人々は何故、神を信仰するのだろう」 私は昔から、あらゆることに興味があった。 強いていくつか挙げるのであれば、「過去」と「未来」について、一人で考え込むことが多かったように思う。 さらに噛み砕いて言うならば、私は「歴史」と「未来」に興味があったのかもしれない。 歴史を振り返ってみても、「何かを信仰する」という行為は、人々に少なからず影響を与えてきた。特に、人々の考え方という点において。 しかし、この日本という国に住み、今この小説を読んでいるであろう貴方は、宗教というものを、それほど身近なものとして捉えたことがないかもしれない。 私も以前はそうだった。 けれど、あるきっかけで海外へ留学することになり、そこで長い時間を過ごしたことで、宗教というものが、私にとってあまりにも身近な存在になった。 例えば、友人や恋人と話しているとき。 あるいは、当時通っていた学校で行われる朝の集会。 そこでは毎朝、祈りの時間があった。 そんな環境に長く身を置いていたせいだろう。 私は次第に、「神」という存在そのものよりも、「人は何故、何かを信仰するのか」という行為そのものに疑問を抱くようになった。 そして、私は一つの考えに辿り着いた。 これはあくまで私自身の見解でしかない。 しかし、人々が何かを信仰する理由の一つは、「責任の押し付け」なのではないだろうか。 人は時に、あまりにも大きな責任や罪悪感を抱えたとき、その重さに耐えきれなくなる。 自分一人では背負いきれない。 誰かに背負ってほしい。 あるいは、少なくとも「自分だけの責任ではない」と思いたくなる。 そんなことは、今を生きる私たちだけではなく、きっと大昔にもあったのだろう。 そして、そんな人々が、自分たちの責任を預ける先として「神」という存在を選んだ。 いや。 「選んだ」という表現すら、正確ではないのかもしれない。 彼らは、自分たちの責任を預けるために、「神」という存在を創り出したのではないだろうか。 もちろん、これは私の勝手な想像にすぎない。 では、なぜ私はそう考えるようになったのか。 具体的な例を挙げてみよう。 誰かが、何か大きな挑戦をしようとしているとする。 その挑戦は、人生そのものを左右するほど大きなものではない。 しかし、失敗すれば、あらゆるものを失う可能性がある。 そして、一人で背負うにはあまりにも大きな責任が伴う。 そんな挑戦だ。 もちろん、成功することが最も望ましい。 それは言うまでもない。 だが、もし失敗したとしたら。 貴方は、その責任を一人で抱え込むことができるだろうか。 私は、到底できないと思う。 もちろん、私自身の精神的な弱さもあるだろう。 しかし、多くの人間が同じように感じるのではないかとも思っている。 だからこそ、人は「神」という存在を必要とする。 自分にとってあまりにも都合のいいように設計された存在へ、責任を預けるために。 「神が私に手を差し伸べなかった」 「神が私を見放した」 そう言えば、自分が背負うはずだったものの一部を、神のせいにすることができる。 私は、その考え方がどうしても好きになれない。 むしろ、そのように考えるくらいなら、最後まで自分一人で考え抜いて、自分自身で責任を引き受ける方がまだましだと思ってしまう。 要するに、「他責思考」なのである。 もちろん、これも極端な捉え方だ。 しかし、大まかに言えば、私はそう感じている。 自分が成功したときには、都合よく、 「これは私が努力した結果だ」 と言う。 ところが、失敗したときには、 「神が味方してくれなかった」 と言う。 それでは、あまりにも都合が良すぎるのではないだろうか。 キリスト教を例に挙げるならば、イエス・キリストを信仰する人々は、教会へ行き、自分が過去に犯してしまった罪を牧師に告白する。 そして牧師は、 「貴方は神に許されるでしょう」 と語る。 もちろん、私はキリスト教そのものを否定したいわけではない。 それによって救われる人がいることも理解している。 ただ、私がどうしても理解できないのは、その言葉を受け取った人間が、自分の罪から解放されたかのように振る舞ってしまうことだ。 まるで、自分が犯した罪など、最初から存在しなかったかのように。 まるで、それが自分ではなく、誰か別の人間が犯した罪だったかのように。 私は、それが嫌で仕方がない。 想像してみてほしい。 極端な話になる。 今、この涙が出るほど退屈な小説を読んでいる貴方の家族が、どこの馬の骨とも分からない人間に殺されたとする。 そして、その犯人が牧師のもとへ行き、自分の罪についてすべてを告白する。 牧師は言う。 「神は貴方を許してくださるでしょう」 その言葉を受けた犯人が、自分の罪から解放されたと錯覚し、まるで何事もなかったかのような顔で街を歩いていたとしたら。 貴方は、どう感じるだろうか。 少なくとも私は、到底受け入れられない。 自分の家族を奪った人間が、自分の罪を神に預け、何事もなかったかのように生きている。 そんなことを想像するだけで、腑が煮えくり返るほど不愉快になる。 私が嫌っているのは、まさにそういう「他責思考」なのだ。 「神を信仰する」という行為そのものを咎めているわけではない。 人間が何かを信じること自体を否定したいわけでもない。 時に、人は何かを信じることで救われることがある。 それもまた、人間という生き物の一つの在り方なのだろう。 しかし、人は時に、あまりにも無責任に、自分の過ちを神へ押し付けてしまう。 もし、神という存在が本当に一人の人間として実在していたのなら。 きっと、苦痛で仕方がないのではないだろうか。 貴方にも経験があるはずだ。 他人から、訳の分からない理不尽な理由で責め立てられた経験が。 自分には何の責任もないことなのに、まるで自分が悪いかのように責められる。 そんなとき、人はどんな感情を抱くだろう。 怒り。 困惑。 悲しみ。 あるいは、どうしようもない無力感。 想像するだけでも耐え難い。 それと同じことを、人は「神」に対して行っているのではないだろうか。 自分では背負いきれないものを神に預け、 「神がそうさせた」 「神が助けてくれなかった」 「神が許してくれた」 と、自分に都合のいい形へと変えてしまう。 しかし、本当にそれでいいのだろうか。 もちろん、時には他人に助けを求めることも必要だ。 どうしようもない失敗をしてしまうこともある。 自分一人では到底背負えないほどの責任を抱えることだって、人生の中には少なからずあるだろう。 だからこそ、私は「誰にも頼るな」と言いたいわけではない。 むしろ、逆だ。 誰かに助けを求めることは必要だと思う。 ただ、その相手を「カミ」と呼ばれる架空の存在にしてしまうのではなく、実際に生きている人間と共に、その責任をどう背負うかを考えるべきなのではないだろうか。 私なら、自分で抱える。 そして、あまりにも重いのであれば、少しずつ、少しずつ。 自分でも担えるように、責任という砂袋を乗せることのできる「荷台」を作っていく。 一度にすべてを背負おうとする必要はない。 一人で持てないのなら、誰かに手を貸してもらえばいい。 そして、その人と一緒に、どうすればこの重さに耐えられるのかを考えればいい。 責任とは、押し付けるものではない。 「どうすれば、この重さを支えることができるのか」 その解決策を、自分自身で、そして必要ならば他人と共に見つけていくものなのだと思う。 だから私は、「神に責任を押し付ける」という考え方に、どうしても納得することができない。 それが私の考えである。 もちろん、これらはあくまでも私自身の思想にすぎない。 実際に神を信仰している人々を、咎めるつもりは毛頭ない。 何を信じるのか。 何に救いを求めるのか。 それは、その人自身が決めることだ。 ただ私は、人間が自分の背負うべきものから目を逸らし、それを「カミ」という存在に預けてしまうことだけは、どうしても好きになれない。 結局のところ、私が問いたかったのは、 「人々は何故、神を信仰するのか」 ということではないのかもしれない。 「人間は何故、自分一人では背負えないものを、何かに預けたくなるのか」 本当に知りたかったのは、そちらなのかもしれない。

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