燈虫
灰田フミ子は完璧な女である。
家事をこなし、不平も言わず、その風貌はまさに男の熟慮する虚像の女そのものであった。
だが、灰田フミ子には熱がない。
ない故に人の心に気づけないのだ。
しかし、人は熱がなかろうと完璧という名の街灯に惹き付けられてゆく。
冷たい電球に焼かれ、墜ちた燈虫は数しれず。
今宵も一人、燈虫が舞う。
その燈虫は口を開くと、
「永田栄一と申します。」
そう灰田フミ子に紡いだのであった。
神戸の一角、大通りから一本外れた道にあるオーセンテイックバーに、一人の男が気力のない足取りで入っていく。
扉を開けると、これはまた疲れた様子の小さな鐘が鈍い音を奏で男を歓迎した。
ギシギシと鳴る回転椅子に身を預け、男はふっと重い息を吐く。
「ジンをいただけないだろうか。」
男が一言そう言うと、バーテンダーはいつもの動作でシェイカーを振りだした。
シャカシャカ。シャカシャカ。
男はこの音の鳴る少しの時間が好きである。
定時上がりの許されない仕事場も、暗い部屋に孤独を抱えて帰る寂しさも、男の嫌いなものは全てこの音が消し去ってくれるような気になるのだ。
だから気づくのが遅れてしまった。
男から見て三席奥に一人の女が座っていることに。
なんて綺麗な人なんだろうか。
瞬きをするほどの短い時間であったが、男にそう思わせるほどにその女は妖艶であった。
濡羽色の髪と瞳、雪原のような白い肌、ほっそりとした体躯は紺のテーラードジャケットに包まれている。
困ったな、目が離せない。
視界から女を退けようと男は必死に目の前の酒をあおった。
瞬間、喉を焼くように液体が胃に流れ込む。
この酒は薬臭くて嫌いだ。
そう思いながら、女をまた盗み見ている自分に男は気づいた。
自分はダメになってしまったのだろうか、見れば見るほどあの女が欲しくて堪らなくなるのだ。
そんな時である。
男が女を見た時、女もこちらを向いた。
今までは、横顔しか見えていなかったがこちらを見た女のなんと美しいことか。
女の顔は花のようで、椿に似ていると男は思った。
口元の紅がそう思わせたのか。
いや違う。
女の纏う雰囲気である。
雰囲気が花であるのだ。
あれは美しい庭先の椿であろう。
そんな事を考えている場合ではないのに、早く視線を外さねばならないのに。
只々、胸が高鳴るのだ。
「何か…御用でしょうか。」
凛とした声が室内に静かに響く。
凛としているのにどこか寂しげに聞こえるのは男の幻聴であろう。
この女は声までも美しい。
「永田栄一と申します。」
相手の名前が知りたい一心で男は、自分の名を伝えた。
「永田栄一さんとおっしゃるのですね。」
「灰田フミ子と申します。」
女はそう囁いた。
「灰田さんはよくこのバーに来られるのですか。」
男がそう質問したのは、次会う機会を作るためだった。
「いえ、今日が初めてでございます。」
「永田さんはよく来られるのですか。」
灰田フミ子は世間話に付き合うように質問を返した。
「えぇ。私はよく利用させて貰ってます。」
そう男が言うと、フミ子は黒曜石のような黒い瞳を少しも動かさずに、
「そうなのですね。」
言葉少なく相槌を返したのだ。
その態度を見て男は気づいてしまった。
フミ子さんには熱がない、と。
氷のような女であることに。
それでも男は止まれやしない。
永田栄一は、灰田フミ子という名の女に惚れたのだ。
きっと、フミ子からすれば男は燈虫に見えることであろう。
あぁ、冷たい熱に焼かれてしまった。
それでも男はこの女の熱が欲しいのだ。
そのために男は言葉を紡ぐ。
「来週の金曜日、この時間にまたお会いできませんか。」
「貴女に惚れてしまいました。…またお会いしたいのです。」
フミ子は凛とした瞳で男を見たが、その顔に笑みは浮かんでいなかった。
「単調でロマンチシズムな事柄に、私は騙されませんの。」
「…きっと私じゃなくてもよろしいのではなくて?」
「私は、貴方じゃなくても良いと思うもの。」
そう言うと彼女は寸分も酔っていないのであろう、会計を済ませノブを回す。
男はその言葉に唖然とし愉快に口を開けたまま、ただひたすらその言葉を咀嚼しようとした。
結果、男は何も言えなかったのだ。
だが去りゆく女の言う通りだとも思わなかった。
あぁ、あの女は酷い女だ。
男の赤き糸をいとも容易く、ぐちゃぐちゃに固めてしまった。
固めただけで解くこともしない、なんて自分勝手なのだろうか。
この思いが切符なら、男は目的地の見えないまま恋情という名の電車に乗らなければいけなくなってしまったのだから。
酷い酷い、酷い女だ。
冷たくて虚しくて、どうしようもない女だ。
だが、男は思った。
貴女が目的地になってくれることを私は祈ろう、と。
男は残りの酒を煽った。
噎せてしまうのも仕方はない。
男はいつも夢ばかりだが、今はこの薬臭い酒に救われたのだから。
「この酒は嫌いだ、現実のようでいかにもつまらない味をしている。」
けれど灰田フミ子はその苦味さえ甘さに変えたのだ。
恋をするには十分な采配であろう。
今日はもう酔えない、そう見切りをつけ男は店を出た。
空を見上げても星は光らず、ビルのネオンも今は寝静まっている。
街灯だけが明るくて、男はふと笑ってしまった。
「今日は、冷え込むな」
「光に飛び込む燈虫の気持ちが良く理解できるさ」
男はこの日、冷たき街灯に焼かれたのだ。