まり
9 件の小説いまこうして
いま、こうして書かれてる文章は 誰かも書いたものなのかな。 同じこと、似たようなことを考えて 物書きしてきた人が 文体は違えど 時代の中にいるのかな そう思うと自分がちっぽけな存在に感じてしまうんだ それと同時に1人じゃないんだって どこかホッとするような感情がする 複雑だね 人の頭をのぞいたことはないから 分からないけど、 いろんな世界があって欲しいなって思う。 と同時に、自分にだけの見え方、感じ方 だけだったとしたら 孤独だなとも思う。 時たま考える。 自分は神様に支配された存在なのかなって。 考えること、思うこと、行動すること もともと決められて生まれてきたんじゃないかって。 あまりに無力な考え方か。 それほど自分が世界に絶望のように近い 何かの諦めを感じているのかもしれない。 私が自分の人生の舵を握っているんだ、 そう強く思えていたら こんな考えは思い浮かばなかったかもしれないね。 健康的に生きている私は また昨日と同じように今日を過ごして 当然のように明日を迎える。 気づきがある日もあればない日もある。 そんな感じ。
あなたといて覚えたこと
あなたといて覚えたこと それはため息 デートしてる時に ふと気が抜けた瞬間に 下を向いて息を吐く それは何だろうと思った。 今まで私はしたことがなかったから。 でも分かるようになってしまった。 どうしようもなくて、 感情の行き着く先がなくて、 何の手の施しようもないから ため息が自然と出てきてしまうんだね。 毎日生きてて、 出てくる感情が、 焼却炉みたいに 消化されては新たなエネルギーとなって 湧いて出てくるはずだったのにね。 大人になって、 大きくなって、 考えることが多ければ多いほど、 世界が広くなればなるほど、 そういった 消化されるまで時間のかかる 核燃料みたいなものが出来上がってしまうんだね。 死んでもまだ残ってるかもしれないものが、 生成されてしまうんだね。 たとえ残ったとしても、 これだけ広い世界なのだから 自分と同じ悩みを持った人は 1人はいるはず。 だれかと話しあって 共有できたのならば それは消化になるのかも。 全部消えなくたって、 少しは気が楽になるはず。 そんなのぞみを持って、 今日も生活、生活。
可哀想
皆さんはこの言葉好きですか? 私は疑問に思います。 可哀想って何なんだろう。 言われると見下されてる気持ちになります。 高みの見物をされてる気持ちになります。 本当に心配してくれているとしたら、 その言葉は 「大丈夫?」なのではないでしょうか。 私は大好きなはずだった彼氏が、 この言葉を口するたびに 大嫌いになってきています。
失敗
「愚者は経験に学び賢者は歴史に学ぶ」 あなたはどちら派? 私は圧倒的愚者だ。 自分でも何でこんななのかなぁと思うぐらい。 最近は情報社会だし、 アニメや漫画、映画とか 色んなストーリーが見れて その中から こうした方がいいんだなとか 今までのやり方は◯◯だったけどこの主人公は×△なんだ、真似しよう とか トライエラーの連続で飽き飽きすることもある。 最近、完璧そうな人を見た。 熟考に熟考を重ねて、 失敗しないように、 自分のベストの方向にちゃんと行くことが出来る人。 私はそんな人嫌いだ。 人間ぽくなくて、 失敗ばかりしてる自分が惨めになるから。 私がそう思えてる人は、 もしかしたら自然体なのかもしれない。 人って欲が出て、 あれもこれも、全部手に入れようとして、 無理に力が入って、 結局何にも手に入れられないとか。 これ!と決めたら、 それを手に入れるまでは他を見ずに ただ邁進する。 それって機械なんだよね。 最近の世の中に蔓延る、 タイパだコスパってこんな感じなんだよね。 損したくない、傷つきなくない、 安定していたい、 そんな気持ちから来るものなんだよね きっと。 昔、耳鼻科に勤めていた時におばさんに言われた。 「あなたは失敗が多い人生かもしれない。 人生の中盤まで失敗したことのない人は、 一度そういった状況に陥ると、なかなか這い上がっては来れない。 その分打たれ強くなるから大丈夫だよ。」 って。 まだ全然伏線回収出来てないよ。 悩んでばかりだし、 自分の人生前に進めている気がしない。 けれど、そう信じたい。 自転車に乗れるようには、 転んでは起きを繰り返して、 よくやくまともになるものなのだから。 皆さんは失敗についてどう思う?
人間の価値ってなんだい?
5年ぶりに会った彼が私にこう言った。 「いや〜、久しぶりにあったけど、 市場価値変わってないね。全然落ちてないっていうか。」 一瞬はてな、となった。 今思い返すと 人格を疑うに値する言葉だ。 今の時代、ルッキズムだ何だ、年収がいくらだから、とかそういった 社会に蔓延っている物差しで人間の価値を決める人もいるのだろうか。 私は反対派である。 その人その人で、 今日は◯◯が楽しかったな、とか 空が綺麗だな、とか 少しでも希望みたいなものがあるから この世で生き残っているんだろうに。 なぜ価値をつける必要がある。 かくいう私は収入が全然ないのだけど。 大手企業の会社だと、 いかに駒として利くかが大事だろうから、 できる・できないが大切で、 マルチに何でもできます!ってタイプが重宝されるんだと思うけれど。 それって幸せなのかな。 誰かとの競争が始まって、 本来の自分を見失って、 息苦しさを感じてしまうのではないかな。 その人がその人らしく、 生きれることが本望なのではないのかな。 あんまり社会に縛られたくないね。 自分の軸を持っていたいよね。 自分でいられる時間って 本来とても心地の良いものだと思うから。 何も持ってなくたって、 それだけで満たされてるって 気持ちになると思うから。 … こう言ってきた彼にまた聞いてみたいと思う。 人に市場価値なんてあると思うの?って。 論破してやりたいほど、私はこの件に関して憤っている。
孤独
「何でもいいよ」 「大丈夫、大丈夫」 小さな頃からの口癖だ。 私のことに興味を持ってくれる人はいるけど、私はあんまり周りに興味がわかない。 いつもどこからみんなを傍観してて、 静かな場所にいることばかり。 ある程度仲良くなって、 相手が呼び捨てをしてきた時、 あまりの近すぎる距離感に引いてしまい、 それ以来徐々にフェードアウトしてしまった。 どうしてこんなに自分の外側とコミュニュケーションを取るのが下手くそなんだろう。 学校での世間話、 電車の中で話し合う学生、 井戸端会議をする老人たち、 住宅街で子供の帰りを待つ母親たちの談笑… 何が楽しい? なぜそんな笑えるの 何をそんなに話すことがあるの 私には不思議でしょうがない 遠くから見てるだけなら、 人と人とが話し合って、笑ってるのを 景色として捉えるならば、 自分がカメラのシャッターみたいになれるから、耐えられるけど。 自分がのその中にいることが考えられない。 コミュニティーに入って 話し合ったり笑い合ったりした過去はいくらだってある。 けど、何で何だろう? 大人になって、色々と分かってから、 頭で色々考えるようになっちゃってからかな。 入れなくなった。 自分が社会に存在するコミュニティーのなかで楽しく笑える姿が想像できない。 もう難しいかもしれない。 だから今のところは、観察者として生きるんだ。
サイダー2
トイカメラの試運転だ。 私は電車に乗り、ひまわり畑へ向かうことにした。 幸い駅の校舎から、 眼下にそれは広がった。 小さい私にとって、そのひまわり畑が どのくらいの規模なのか想像し得なかった。 畑に到着するないなや、この猛暑では幼き頃の私もヘトヘトだった。 額から落ちる汗をハンカチで拭きながら、 シャッターを構える。 「ジーーー。カチッ。」 撮れたか撮れてないのかよく分からないような感覚だ。 少し歩くと、 ひまわり畑のマップがあった。 子供から大人までわかりやすいポップな装飾で、星が現在地として書かれている。 少し離れたところに、 「駄菓子屋 みまる」が茶色い家マークの下に書かれていた。 ここから駄菓子屋までは近い。 きっとアイスやジュースがたくさんあるんだろうな。 私は憧れであった。テレビでしか見たことのない駄菓子屋に。 おばちゃんがいて小学校の下校途中に、 当たり外れのあるお菓子を買ったり、 お小遣いのなかでたくさん買えるように、十円単位であれこれ調整したりする、 風情のある景色が好きだったように思う。 よし、行こう。 駄菓子屋方面へ歩いて行くと、おぼろげだがオレンジか赤の中間色でかかれたような文字の看板が見えてきた。 アスファルトはとても暑い。 ジリジリとカゲロウが立っている。 それに加えて持ってきた水筒じゃ物足りなく、喉が渇いた。 … 着いた。 大正?昭和? 古びた茶褐色の木造作りに、 茶褐色でかかれ、フォントにサビの入った看板 勇気を出して、引き戸をゆっくりと開けた。 そこは、さっきまで聞こえていたセミの声や、夏の暑さから程遠い、何の生き物もいないようなシーンとした静けさがあり冷たい空気を感じた。 私が喉をごくりと飲んだだけで壊れてしまいそうな静寂のために、ゆっくりそろりそろりと中に入っていった。 奥の冷蔵ケースからゴォーーーっとした音が聞こえる。 いつか賞味期限が切れていそうに、人に触れられた形跡がなさそうだと思うほど、近寄ってはいけない雰囲気を感じる。 その佇み方はまるで妖怪だ。 人気はない。 土間があって暗がりな空間にお菓子がポツポツ置いてある。 私はただ普通の駄菓子屋さんだと思っていたけど、求めていたのとは違って、 ただ立ち尽くすしかなかった。 「バシーーーーン!!!」 オフィスレディの格好をした女性が 今走ってきましたよと言わんばかりの熱気で、ぜぇぜぇといいながら入り口扉のところに手をかけどっしりと立っている。 後ろの黒髪ロングのポニーテールがブンブンと横に触れているのが見えた。 「おばちゃん!!来たよー!」 何の返答もないのも、特に気にしていないようだった。 容姿に似つかず、ずんずんと奥に入ってきた。 土間に続く、たたみの部屋の入り口に置いてある、ジュースのショーケースをガバッとあけるやいなや、慣れた手つきでケース隣にかなっているオープナーで蓋を開けた。 「プシッ」 … 「あ。」 私の左肘にあたったではないか。 その女性は、たった今私の存在に気づいたようで、 「ごめんね〜! お礼にサイダーあげる!!」 曇り一つない笑顔をこちらに向けてきた。 私は颯爽と入ってきた彼女の存在をすぐには受け止められず、 「は、はぁ…。」 と言って立ち尽くしたまま何となく受け取った。 彼女は再びショーケースを開け、サイダーの瓶を取る。 今度は蓋が飛ばないように、慎重に開けている。 プシッと開けると、豪快にぐびぐびと腰に手を当てて一気に飲み干した。 そして飲み終わった瓶を床に置いた。 「そうだそうだ」 思いだすやいなや、女性は畳の間に、ヒールを履いたまま膝を擦り付けながらテーブルのメモとペンに手を伸ばす。 ジュースのショーケースにへばりつくように何かを書いていた。 きっと黒インクの太文字だ。 キュッキュッとした音が心地よかった。 書き終えると、またテーブルの下の位置あった場所にドンッと少し乱暴に置く。 「おばちゃん、ありがとねー!!」 口元に桜色のネイルが施された大きな手を当てて大きな声で叫んでいた。 その後さっき床に置いた瓶もそのメモの隣に置いて颯爽と去っていった。 彼女の一つ一つの動作に区切りがあって、迷いがなくて、潔い感じがとても素敵だった。 あの人がどこで何をしている人なのか分からないし、 おばちゃんとの関係も知らない。 ただあの曇りない笑顔は私の冷めた子供心を照らしてくれたような気がした。 自分とは対照的な存在に思えて、憧れの人となった。 名前とかその他諸々わからないけれど、 今も元気で暮らしていたらいいなぁ。 またいつかどこかで会えますように。
サイダー
夏の暑い日だった。 うだるような暑さが目覚まし代わりとなって起こしてきた。 本来だったらもっと寝れたはずなのに…。 エアコンのボタン操作を誤ったのか、 睡眠直後2時間しか効いてなかったらしい。 辛すぎる。 中学2年生の私は毎日だらだらと、 宿題をするわけでも遊ぶわけでもない、 つまらない日常を繰り返している。 冷えた飲みものを求めに、古びた階段をトントンと駆け降りる。 やったね。 誰もいない。 親もおばあちゃんもどこかに出かけている。 食卓にあるリモコンに手を伸ばし手をつける。 麦茶麦茶…冷蔵庫を開けて残り物でもいいので食べれるものがないか探す。 テレビから夏の暑さとはかけ離れた、上品で優しく爽やかな声が聞こえてくる。 「最高気温は◯◯。今日は熱中症予防を徹底したいところですね。」 そう淡々とした声に癒された。 食卓につくなり、麦茶をごくごく飲んだ。 立って飲むのはどうやら家のでは違法らしい。 どんなに暑くても、喉がカラカラでも座って飲みましょうという変な家訓がある。 癖で慣れてしまったため、野蛮になり切れない。 目玉焼きに手を伸ばし、むしゃむしゃ食べていた。 「こちら◯◯!!なんと最高気温×△度…!これから日中にかけてだいぶ…」 今度は現地キャスターに受け変わって、 厳しそうな表情をしながらも懸命に暑さ訴えるその姿は、 暑苦しさ満点のレポートである。 その後ろにはひまわり畑が広がっていた。 思い出した。 小さい頃、二駅離れたところにひまわり畑があって、そこに1人で写真を撮りに行ったんだ。 たしか小学1年生だったっけ。 両親が共働きで、おませなガキだったのでトイカメラというものを持っていた。 小学生用雑誌で見つけた、見た目がチョコレートの形をしたそのカメラのあまりの可愛さに買って買って!とねだったらなんなく与えてくれた。 トイカメラは不便だ。 撮った写真はいちいちパソコンに通して確認しなければならない。 実像は確認するまでのお楽しみ。 (続く)
衣替え
衣替え…いつだったっけ。 確か5、6月…? 実家にいた時は、なんやかんや親やおばあちゃんがてんてこ舞いになってやっていた気がする。 どうして昔の人ってあんなにもしきたりを守るんだろうね? 私の世代はミニマル世代。 年中、同じTシャツを着てる人がいたって何らおかしいとも思わないし、私だって季節の変わり目に沿って下着を変えるだ何だしてはいない。 衣替えの時期にあくせくしなくたって年中同じものに身を包まれてる私には縁遠い存在かもしれない。 強いていうなら、自分の衣替えはしたいところだ。 私は昔からものをずっと減らしてきた。 沢山のものに囲まれた環境で育ってきて、自分の所有物でもない、家族のもの(いうて他人のものだ)を片付けざるを得なかった。 綺麗好きに生まれてしまった私は酷である。 学校から帰ってきた夕方に、自分の家のはずなのに、物が散乱していて落ち着かないものだから、お菓子を食べてお茶を飲んで一息ついたら 「さぁ、始めよう」と意気込み、ブラックホールみたいな箇所から片付け始めるのだった。 ブラックホールっていうのは、ここなら何置いてもいいでしょ、という感覚を持たれた場所のことである。 とはいえど、人間の都合のいいように吸い込んではくれないので、ただのゴミの集積場である。 やれやれ… 何とか、その場所に目を向けても心がザワザワせず落ち着ける環境になったかな。 ついでに足場の確保もできたところで満足、満足…と一息つくのだった。 その部屋を汚す当の本人はありがとうと言いつつも、まるでどこか他人事のように、知らん顔をする。 その一、二週間後… あれだけきれいに整えたはずの場所は、まだブラックホールとして認知されていた。 そう、その繰り返し。 私がきれいにしては、汚され、整えては、崩される。 そんなことが続いたのもだから、私はモノが少ない方が生きやすいんだなという価値観が、心の奥底で芽生えていったのだろう。 だから私は、24歳である今、身の回りにはモノがほとんどない。 服は全部で10着以下だし(正確には数えたことがない)、衣装ダンスもなしに、カゴにただ無造作に入れている。 面倒なことも相まってか、いろいろなものを切り捨てる癖もある。 友達とかの人間関係、仕事の量… いつも間にか大切なものって何だろう?と指折り数えるほどもなくなってしまった。 こうして段々と人と関わっていくことがなくなった私は、言葉が欠けていった。 発語が少なくなった。 頭の中では駆け巡っていた言葉もだんだん省略かされ、どんどんミニマルになる。 面白く無くなる。 私は衣替えをしたい。 頭の中にある言葉数が増えて、自分の中にあるものを思いのまま表現できるようになったらどれだけ面白いだろう。 それに付随して、みるみる好きになるだろう。 自分の見えている世界のあれこれが。 このアプリを通して実現させることができたらと思う。