Izard

3 件の小説
Profile picture

Izard

最高に間抜けな人間です。 Twitter→@UtopiaVulpis

[XIX]THE SUN(Solis)

 Archivum Divinatio  天界と下界の間には、地上って呼ばれてる場所があった。  天使と悪魔が一緒に暮らしてる集落で、混血なんて珍しくもない。  純血なんて、昔話の中にしか居ないと思われてたくらいだ。  ……まぁ、俺には関係なかったけど。  俺は、そこで遺された、純血の悪魔だった。  太陽を主とする悪魔「Solvalute」の末裔。  最後の純血だからって理由で、地上へ逃がされたらしい。  未来予言なんて厄介な加護まで残して。  先の事が視えるっていうのは、そんな大層なものじゃない。  ただ、見たくないものまで見えるだけだ。  Nox。あいつもまた、最後に遺された、純血だった。  俺達が生まれる前、それぞれの母親だけが、この集落へ逃げてきたらしい。  最後の子供くらいは、戦火へ巻き込みたくなかったんだろう。  だから俺達は、最初から地上で生まれて、地上で育った。  母親同士の仲も良くて、気付けば、ずっと同じ家に居た。  朝起きた時には隣に居て、眠る時も隣に居る。  それが当たり前だった。  だから、  離れるって感覚の方が分からなかった。  ……多分。  俺にとってノクは、最初から、自分の半身みたいなものだったんだと思う。  あいつだけ居れば良かった。  本当に、それだけで良かった。  我々加護を持つ者は、その眼を無闇に晒してはならない。  慣れぬうちは、眼を覆い、眼を閉じたまま世界を見なさい。  そう教え込まれて育った。  実際、目隠しをしていても見える。  けど、ずっと布越しに世界を見てると、自分まで薄くなっていく気がした。  だから俺達は、花畑で二人きりになる時だけ、それを外してた。 「ノク、目隠し外していい?」 「いいよ。ここは二人だけだから」  その言葉を聞いてから外すのが、いつの間にか癖になってた。  別に、駄目だなんて言われる筈ない。  あいつは絶対、笑って許す。  それでも毎回聞いてたのは、多分、あの声が好きだったからだ。  嬉しそうに笑って、まるで秘密を分け合ってるみたいな顔で、  「いいよ」って言うから。  ……なのに、時々。  頭の奥で、嫌な未来が勝手に騒いだ。  壊れる。  いつか終わる。  そんなものばっかり見せてくる。  ……うるさい。  分かってる。  そんなこと、とっくに。  あいつらが狙ってたのは、俺だけだった。  なのに。  結局、俺は。  俺の白い宝石を、自分の手で傷付ける事になった。  ……最悪だ。  あの日も、いつも通り花畑にいた。  ノクは野鹿に懐かれて、少しだけ俺から離れてた。  あいつ、昔から動物によく好かれるんだ。それが天使の性質らしい。  正直、ちょっと嫌だった。  俺のことだけ見てろよ、って思うくらいには。  ……でも、分かる。  あいつは綺麗だから。  静かで、優しくて。  触れたら壊れそうなくせに、誰より他人へ手を伸ばせる。  そりゃ、惹かれるだろ。  俺だって、そうだった。  だから、多分。  あいつらも、そこを見てた。  ノクの目が、俺から逸れた瞬間だった。  急に後ろから口を塞がれて、首に何か刺された。  何をされたのかも分からないまま、意識だけが沈んでいった。  ……可哀想なくらいに。  あの子は、そのまま亜人達へ運ばれてしまったのです。  眠ったまま。  何も知らぬまま。  そして、試薬を投与されてしまいました。  次に目を覚ました時には、もう、何かがおかしくなってた。  泣き声、悲鳴、割れる音。  まだ起きてもいない筈のものばかり、勝手に流れ込んで来た。  視たくなかった。  なのに未来は、容赦なく頭の中へ入ってきた。 「ノク……怖いよ…たすけてよ、どこにいるの?」  体の奥で、何かが暴れてた。  壊したい。違う、壊したくない。  触りたくない。  でも、壊れる音が聴きたかった。  ──rap-tap-tap  悪魔が来るよ。  ──rap-tap-tap  出ておいで。  やめろ。  頭の中で、誰かが笑ってる。  やめてくれ、お願いだから。  ……やめてください。  集落へ戻った頃には、  もう、自分が何をしてるのか分からなくなってた。  顔も覚えてない、声も思い出せない。  ただ、壊さないと、  自分の方が先に壊れそうだった。  気付けば、周りは静かになってた。  ……でも。  まだ、一つ残ってる。まだ壊れてないものがある。  そう思った瞬間、俺は外へ出てた。  そこに、ノクがいた。  あの時、初めて見たんだ。  ノクの眼を。  白と黒が反転した眼。  硝子細工みたいな白い瞳。  真っ直ぐ、俺だけを視てくれた。  綺麗だった。  ……でも、見惚れてる暇なんか無かった。  最悪な未来が視えてしまったから。  俺の羽根が、ノクの胸を貫く未来。  白い身体から熱が消えて、動かなくなって、冷たくなっていく未来。  その瞬間ですら、ノクは笑ってた。  嬉しそうに、救われたみたいに。  どうして。  何で、笑ってるのさ?  ……何で、そんな幸せそうに死んでるんだ?  嫌だ。  嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。  そんな未来、絶対に嫌だ。  覆れ。  覆せ。  お願いだから。  頭では分かってた、もう止まれない事も。  このままだと、俺がノクを壊す事も。  なのに、  身体が言う事を聞かなかった。  お願いだから、逃げて。君だけは、傷付けたくない。  ……そう、逃げて。  走れよ。ほら、鬼ごっこしよう。  今度は、俺が鬼だから。  捕まえたら、ノクの胸を貫くんだ。  ……好きなんだよ。  本当に。    だから、もっと知りたい。  触れたかった、お前の内側まで、全部。  綺麗な色をしてるのも知ってた。  あの青を、もっと近くで見たかった。  最後まで、俺だけを見ててほしかった。  ──捕まえた。  ……あぁ。  ノク、笑ってる。  ……笑ってる?  なんでだよ。  なんで、そんな顔してるんだ。  やめろ。  そんな顔のまま、俺の前から居なくなるな。    止まってくれ!  ……?  いや、違う。もう終わった事だ……。  ……どこまで話したか。  あぁ、そうだ。胸は、貫かなった。  結局、傷付けた事には変わりないけど。  ノクの血を見た瞬間、そこでようやく、俺は正気に戻れた。  青かった。あいつの血。  綺麗で、気味が悪いくらい静かな青だった。  その瞬間、自分が何をしたのか全部分かった。理解した途端、喉が潰れるくらい叫んでた。  怖かったんだ。  ノクが傷付いた事も、自分の手で傷付けた事も。  何より、まだ壊したいと思ってる自分自身が。  だから、これ以上あいつに触れないように、自分で羽根を引き千切った。  ……痛みは、あまり覚えてない。  多分、それどころじゃなかった。  羽根を失って、やっと少しだけ静かになった。  そこでようやく、倒れてるノクを抱き上げたんだ。  未来で見たノクは、もっと冷たかった。でも、違った。まだ生きてた、ちゃんと熱があった。  ……泣いてたよ。  声を出したら壊れそうで、誰にも聞こえないくらい小さな声で。それしか出来なかった。  その後の事は、正直、あまり覚えてない。  気付いたら、研究所の連中が来てた。  あいつらは、まるで救助みたいな顔して俺達を運んだ。  笑えるよな。  全部、お前らが始めた事なのに。  研究所へ運ばれてからも、俺はずっと起きていた。  いや、多分、眠れる状態じゃなかったんだと思う。  白い壁、薬品の匂い、知らない足音。  全部が気持ち悪かった。  少しでも気を抜けば、また自分が壊れる気がした。  だから、ノクが目を覚ますまで、俺はずっと傍にいた。  研究員が近付く度、威嚇した。触るな、って。  実際、触れられたら何するか分からなかった。また壊すかもしれない。  だから、誰にも近付かせたくなかった。  ……でも、ノクに触れるのだけは許した。  あいつの為に必要な事だったから。  ベッドの上で眠るノクの胸には、包帯が巻かれていた。  その下の傷が、俺のせいなんだって事だけは、嫌になる程分かってた。  気付けば、カーテンに血が滲んで、背中が熱くなってた。  ……再生しようと思えば、すぐ出来たんだ。  俺の羽根はそういうものだから。  でも、もう生やしたくなかった。  ノクを傷付けたものが、まだ自分の身体にあるのが、耐えられなかった。  だから、そのままにしてた。  血が流れても、別にどうでもよかった。    痛い方が良かったんだ。  その方が、自分が何をしたのか忘れずに済むから。  ……でも、一番怖かったのは、別の事だった。  もしノクが目を覚まして、俺を見た時。  怯えたらどうしようって。  それだけがずっと怖かった。  なのに、あいつは。 「……今のリズ、まるで花嫁さんみたいだね」  目を覚まして、最初にそんな事を言った。  意味が分からなかった。  普通なら、恨まれて当然だった。なのに、あいつは笑ってた。  まるで何もなかったみたいに。  その瞬間、息が詰まった。  許されてしまったからだ。 「ねぇ。恨んでなんかないよ。嫌ってもいない」  ……何でだよ。  なんで、そんな風に言える。 「俺ね、本当に心からありがとうって思ってる。痛いのなんて、どうでもいいくらいさ。他人の思考が読める呪いが解けた。それが嬉しいんだ。嫌なことばっかり聴こえて、ずっと苦しかった。でも……今は、リズのおかげで、それが無いんだ。」  ……やめろ。  俺を肯定するな。それ以上、近付くな。 「……ノクは、僕のこと……嫌いになってないの……?」 「勿論さ」  違う、違うんだ。  俺は、お前を壊した。  なのに、どうして。 「それよりさ、リズの唇。切れて血が出てるの、気になる。ほら、カーテンどかしてよ。俺が血、食べるから。血、勿体ないよ」 「ちょ、ちょっと……!あっはは! くすぐったいよ! これじゃあ……誓いのキスみたいじゃん!」 「じゃあ誓いまーす」  その瞬間だった。  戻れない、って分かったのは。 「唇おわったら、次は背中だからね。俺のお嫁さん」 「まだ僕たち大人じゃないから、結婚なんてできないよぉ!」  そんな資格なんて、最初から無い。  なのに、あいつは当然みたいに俺を呼ぶ。 「ていうか、僕がお嫁さんなの? 絶対ノクの方がレース似合うって! 僕はお婿さん!」 「そうかぁ。じゃあ、それは大人になってから決めよう。背が低かった方がお嫁さんで、どう?」 「受けて立つ!」 「ふふ、 言ったね?」  あの時、ノクは俺の世界の全部になった。  逃げるとか、距離を取るとか、そういう話じゃない。  俺は選んでない。  気付いた時には、もうそこに居た。  離れようとする度、そこが自分の居場所なんだと分かる。  だから、どうしようもなかった。  天使の顔をしたまま、そういう事をするんだよ。  あいつは。  研究所へ運ばれてからしばらくは、案外静かだった。  帰りたいとは思ってた。当然だ。  でも、集落を壊したのは俺だし、ノクを傷付けたのも俺だ。  だから、何も言えなかった。言う資格が無いと思ってた。  それに、あの人が居た。  俺達を見つけた時から世話をしていた研究員だ。  薬を持ってきたり、傷を診たり、食事を置いていったり。いつも忙しそうにしていた。  正直、亜人は好きじゃなかった。  でも、あの人だけは少し違った。俺を被検体として見ていなかった。  薬を持って来る時も、傷を診る時も、何かを確かめるみたいな顔じゃなかった。  だから敵だとは思わなかった。  ……可哀想な人だとは思ったけど。  あの人はずっと、逃げたいのに逃げられない顔をしていた。  ただ、それとこれは別だ。実験は実験だった。  薬を打たれて、拘束されて、また薬を打たれる。  何を調べていたのかなんて知らない、興味も無かった。  ただ、終わる頃には酷い頭痛がしていた。  眠れない、吐きそうになる。  酷い日は、自分が今どこに居るのかも分からなくなる。  それでも耐えられたのは、面会の時間があったからだ。  一日三回。一回一時間。  短かったけど、俺には十分だった。  ノクが居たから。  ……まるで薬みたいだな。  面会の時間になると、俺達はいつも書斎へ行った。  静かだったから。人も来ないし、監視も遠い。  何より、本が沢山あった。ノクは本が好きだったから。  だから自然と、そこが俺達の場所になった。  最初の頃は普通だった。  話をして、本を読んで、たまに昔みたいにふざけて。  それだけだった。  それだけで良かった。  でも、段々と身体が保たなくなった。  実験の回数が増えたからなのか、薬の量が増えたからなのかは知らない。  実験が終わる頃には、立っているだけでも辛かった。  頭痛は酷いし、視界もぼやける。  自分が自分でなくなるような時もあった。  そういう時は、身体が勝手に動いてた。  何かが近付いてくる、何かが喋っている。  煩かった、痛かった、怖かった。  でも、気付くと静かになっていた。  それだけだ。  ただ、疲れていた。  酷く。  本当に酷く。  面会が始まる頃には、既に頭が重かった。  ノクの声を聞いてるだけで、意識が遠くなる日もあった。  それが悔しかった。せっかく会えているのに。  話したい事なんて山ほどあったのに。  なのに。  ノクの羽根に包まれると駄目だった。  柔らかくて、温かいんだ。  何も考えなくて良くなる。未来も少し遠くなる。  気付けば、会う度に眠るようになっていた。  最初は少しだけ。  そのうち半分くらい。  最後の方は、ほとんど寝ていた気がする。  本当は起きていたかった。  ノクと話したかった。  顔を見ていたかった。  でも無理だった。  身体が限界だったんだ。  だから俺は、あいつの羽根の中で眠った。  子供みたいに。  馬鹿みたいに無防備に。  あいつだけは、絶対に俺を傷付けないと知っていたから。  眠りに落ちる直前。  羽根越しに聞こえた声だけは、今でも覚えている。 「ごめんね、リズ。」  何に対して謝ったのか、あの時は分からなかった。  俺はそのまま眠った。  だから、最後まで気付けなかったんだ。  何の前触れもなく、実験は終わった。  その代わり、ノクと会えなくなった。  どっちが理由で、どっちが結果なのかは知らない。  最初は、また数日だと思っていた。  面会の時間になれば、いつもみたいに書斎へ行けると思っていた。  でも違った。  そこでようやく、あの時の「ごめんね」が頭を過った。  思い出したくなかったのに。  食事が運ばれてくる、薬も運ばれてくる。  飲まなければ、飲むまで居座られる。  だから飲んだ。  眠る。  起きる。  また薬が来る。  また飲む。  そんな事を繰り返していた。  どうして生きているのかは、よく分からなかった。  寂しかった、苦しかった。  起きていても、やりたい事が無かった、出来る事も無かった。  気付けば、あの衝動は消えていた。  壊したいとも思わない、叫びたいとも思わない。  ただ、何もなかった。  それで気付いた。  あれは俺じゃなかった。  そう思った。  そう思いたかった。  ……でも、壊したのは、結局この手だった。  眠る度に同じ夢を見た。  ノクが飛んでいく。  呼んでも振り向かない。  追い掛けても届かない。  何でだよ、呼んでるだろ。  聞こえてるだろ、振り向けよ。  俺を見ろ。  俺だけを見ろ。  その羽根で包んでくれよ。  飛んで行くな。  置いていくな。  置いていくな。  置いていくな。  ……ノクが居ないと、俺は、俺でいられない。  いつ置かれたのか分からない。  気付いた時には、枕の上に紙があった。  羽と一緒に。  深夜零時。書斎に来て下さいませんか。  無理だろ。  夜になれば鍵が掛かる、外へ出られない。  だから引き出しに突っ込んだ。  なのに。  深夜零時、  部屋の鍵が外れる音がした。  金属が擦れる音、聞き間違えるはずがなかった。  顔を上げると、扉が開いていた。  廊下に出ても、誰も居なかった。  巡回も、来なかった。  監視カメラですら動いていなかった。  歩き始めて、ようやく気付いたんだ。  書斎まで続く道だけが、綺麗に空いていた。  罠かもしれないとも思った。  でも、どうでも良かった。  ノクが呼んでいる。  それだけで、行く理由には十分だった。  ……本当に……ノクが、そこに居たんだ。  ノクが居た。  本当に居た。  幻じゃなかった。  いつぶりだったのかも覚えていない。  ただ、居た。  それだけで良かった筈なのに。  気付いた時には、俺はあいつを問い詰めていた。  なんで居なくなった。  なんで何も言わなかった。  なんで会いに来なかった。  なんで。  なんで。  逃げるな。  そう思った。  思っただけだった筈なのに。  気付けば、手が伸びていたんだ。  青白い羽根を掴んでいた。  離したくなかった。  もう二度と。  飛んで行ってほしくなかった。  ……骨が折れる音がした。  何の音なのか、最初は分からなかった。  次に見えたのは、羽根だった。  床に落ちていた。  俺の手の中にも残っていた。  そこでようやく理解した。  また、俺がやった。  俺は何を言えばいいのか分からなかった。  何か言わなきゃいけなかった。  でも何も出てこなかった。  頭が真っ白だった。  そんな時に。  ノクが笑ったんだ。  あの時、何を誓ったのかなんて、今はもう上手く思い出せない。  ただ、絶対に離れないと。  そう言った気がする。  そう言われた気がする。  それだけは覚えている。  ……それだけでいい。  何を誓ったのか。  何を失ったのか。  何を捨ててしまったのか。  貴方は覚えていなくて良いのです。  月の天使は、それを望んでおりませんから。  ただ一つ。  離れないという約束だけ。  それだけが、あの子の本望だったのですよ。

0
0
[XIX]THE SUN(Solis)

[XVIII]THE MOON(Nox)

 Archivum Memoriae  天界と下界の狭間、地上と呼ばれる層の縁に、天使と悪魔が共に暮らす集落がありました。  その集落では、混血は珍しいものではありませんでした。  むしろ、当然の事であり、純血は物語の中にしか出てこない存在とされておりました。  私は、そのような集落で産み落とされた純血の天使で御座います。  月を主とする天使「Noxtaryus」の末裔。  その種族の、最後の純血でありましたから、  それはそれは、とても、大切に育てられたものです。  私は過去透視の加護を授かるのと共に、  生まれつき胸には、他人の思考を全て読んでしまう眼の呪いが宿っておりました。  全てを知ってしまうことは、時に苦しいものでもありました。  私は同時期に産み落とされた、Solisという純血の悪魔にだけ、私の呪いを明かしておりました。それだけで、私の心はほんの少しだけでも、救われていたのです。  私達は、いつ如何なる時も離れずに暮らしておりましたので、まるで片割れのような存在となっておりました。  彼だけが私の世界なのだと、断言できる程には。    我々加護を持つ者は、その眼を無闇に晒してはならない。  慣れぬうちは、眼を覆い、眼を閉じたまま世界を見なさい。  そのような教えを説かれましたから、まだ幼い私達は、  二人きりで、花園で遊ぶ時にだけ眼の覆いを外しておりました。 「ノク、目隠し外していい?」 「いいよ。ここは二人だけだから」  それは、訓練の逆であり、秘密の遊戯であり、世界に対する小さな反抗でもありました。  私のリズは本当に……愛らしいので御座います。  いつも、いつでも私に確認を取るのです。  只、それだけの事ではありますが、それがとても、無防備で、可愛らしいもので……。  ……ああ、失礼。  このような話をしていると、どうしても脱線してしまいますね。  あの子の事となると、私は昔から、少々……。  しかしその甘美な日常は……長く続くものでは、ありませんでした。  地上で文明を築いていた「亜人」という者達は当時、戦争の最中にありました。  その彼らに、私の黒い蜜は奪われてしまったのです。  悪魔は、我々天使とは違う性分をしております。  特に、下界より流れ着いた純血は、プライドが高いものですから、異種と混じり合う事はしないのです。  それ故に、地上に居る悪魔は通常、孤立しているものなのです。  それが理由でしょう、亜人が、悪魔にだけ目を付けていたのは。  その頃の私達は、まだ花園で遊ぶことを許されておりました。  途中、私は、ふらりと現れた野鹿に懐かれまして、つい、そちらへ付いて行ってしまったのです。  その一瞬でした。私が目を離した隙に、リズが攫われたのは。  今となっては、あれも、亜人の仕掛けであったのだと分かります。  逸れてしまったリズをいくら探しても見当たらない為、私は一度、仕方なく集落へ戻りました。  そこにありましたのは、平穏という皮が剝がれ落ちた後の光景で御座いました。  ……不思議なことに。  私の胸には、仲間を失った哀しみというものが、どうしても生まれてはこなかったのです。  胸に残ったものは、只々、心配だけで御座いました。  えぇ──きっと、私は可笑しかったので御座いましょう。  このような状況でも、私は、リズだけが気懸かりで仕方がありませんでした。  私にとっては、ごく当然のことで御座いました。  私の、私だけのリズさえ無事でいてくだされば、他の事など、何一つ構わなかったのです。  その様なことを思いながら頭を抱えていた時でした。  背後から、硝子の割れる音が鳴り響き、  振り向いた先には、血濡れたリズが立っていたのです。  その時の不安そうで、今にも泣きだしそうな顔は、とても、愛らしいもので御座いました。  可能であるなら、直ぐにでも傍へ寄り、その柔らかな頬についた返り血を拭ってやりたくなる程に。  ……そして、あぁ……あの時なのです。  初めて、世界そのものから、リズの瞳を視る事が赦された瞬間は……。  暗い灰色の瞳…その縁に……僅かに差す赤。  その穏やかな揺らめきが、私の瞳を捉えて。  本能が、離すことを許しませんでした。  しかしながら、私に宿り、私の心を蝕む呪いが、相も変わらず邪魔をするので御座います。  お願いだから、逃げて。君だけは、傷付けたくない。  ……あれは、リズの想いでした。  弱く、か細いものでありながら、はっきりと。  逃げてほしいと、  切実に願ってくださいました。  生まれながらの呪いは、只一人。リズにだけ、全てを曝け出しておりました。  私はその想いに従いまして、糸を引かれたように背を向け、  走り出しました。  何故私が飛ばなかったのか、疑問に思うでしょう。  彼は少しばかり特殊な種類の悪魔で御座います。  発達した触手が、羽根の代わりとなっているのです。  ですから、私が飛んだ方が、遮蔽物のない空では直ぐ触手に絡めとられてしまい、不利なのです。  それでも、追いつかれてしまうのは、時間の問題でありました。  追いつかれてしまった時のリズは、もう、自分の意志で動いている様には見えませんでした。  まるで、誰かに操られているような。  あの愛らしい瞳からは、赤い揺らめきも消えておりました。  そこにあったのは、只の空白で御座います。  そのまま私は、私の知らないリズに胸を切り裂かれてしまいました。  ですが、私は知っておりますよ。  あの時も確かに、私の知るリズが、まだ其処に居たことを。  そうでなければ、あの羽根の動きに説明がつかないのです。  本気で私の命を奪うのであれば、その様な傷では済まなかった。  えぇ。切り裂く必要など、最初から無かったので御座います。  あの伸ばされた触手で。  胸を、貫いてしまえば良かったのですから。    寧ろ私は、救われたので御座います。  リズがこの胸を裂いてくださった、その瞬間に。  私を蝕み続けていた、あの呪いがようやく、裁かれたのです。  他の誰でもない。  私だけの、甘く愛しい、太陽の悪魔に!  ……あぁ。  あの時、胸が熱を持ったのは、傷の痛みによるものでは御座いません。  恥ずかしながら。  私は、リズに絆されてしまったので御座います。  只それだけで、あれ程までに陶酔してしまったのです。  そこで、私の意識は一度、手放されてしまいました。  再び目を覚ました頃には、私は、白い壁と機械の影に囲まれた簡素な部屋の寝台の上で、自分自身を発見したので御座います。  その傍らには、リズが居りました。  淡い光に透ける、薄いレースのカーテンを頭から被り、  両手でそれを握り締めたまま、寝台の縁へ腰掛け、静かに項垂れていたのです。  その姿は、まるで、  酷く居心地の悪い罰を受けている子供の様でもあり、或いは、何かの儀式を待たされているものの様でも御座いました。  ですが、私は直ぐに、異変へ気付いてしまったのです。  レースへ、鮮やかな赤色が滲んでおりました。  そして、その背には。在るべき筈の羽根が、存在しておりませんでした。  あの子は、自ら引き千切ったので御座いましょう。  私とは違い、リズには、未だ何の手当も施されておりませんでした。  傷口からは、未だ血が流れ続けていたのです。  恐らく、警戒していたのでしょう。他者へ触れられる事を、拒んでいたのです。  ですが、不思議な事で御座います。  あの子の羽根は、触手より成るもので御座いますから、本来であれば、直ぐに再生出来る筈なのです。  それにも関わらず、リズは、今もなお、新たな羽根を生やそうとはしないのです。  私を傷付けたことへの、贖罪だったので御座いましょう。  私はその姿を見て、やっと、自分自身の感情に気付いてしまったので御座います。  友情と呼ぶには、余りにも熱を帯び、庇護や憐憫と呼ぶには、余りにも近過ぎた……。  私では名づけようのない衝動だったのです。  ですから、たった一言。リズに伝えたのです。 「……今のリズ、まるで花嫁さんみたいだね」  赤く滲む、純白のヴェールに身を包む花嫁。  私の目には、そう映ってしまったのです。  リズは、その言葉に、ぴくりと肩を震わせ、ほんの一瞬だけ顔を上げてくださったのです。  少しばかり、困ったような顔で、私を見つめてくださっていたのです。  しかし、その視線は直ぐに私の、包帯の巻かれた胸元へ落ちて行きました。  それでも私は、努めて軽い声で、言葉を紡いたので御座います。  「ねぇ。恨んでなんかないよ。嫌ってもいない。  俺ね、本当に心からありがとうって思ってる。痛いのなんて、どうでもいいくらいさ。他人の思考が読める呪いが解けた。それが嬉しいんだ。嫌なことばっかり聴こえて、ずっと苦しかった。でも……今は、リズのおかげで、それが無いんだ。」 「……ノクは、僕のこと……嫌いになってないの……?」 「勿論さ」 「それよりさ、リズの唇。切れて血が出てるの、気になる。ほら、カーテンどかしてよ。俺が血、食べるから。血、勿体ないよ」 「ちょ、ちょっと……!」  私がその様な真似を致しましたのも、幼子特有の、奇妙な執着の様なもので御座いましょう。  リズは、そこでやっと、笑ってくださいました。   「あっはは! くすぐったいよ! これじゃあ……誓いのキスみたいじゃん!」 「じゃあ誓いまーす」  私は少々ふざけた調子で言い、わざとらしく間を置きました。  しかしながら、その誓いは本心で御座いました。 「唇おわったら、次は背中だからね。俺のお嫁さん」 「まだ僕たち大人じゃないから、結婚なんてできないよぉ!」  リズは慌てたように反論しながらも、何処か嬉しそうで御座いました。 「ていうか、僕がお嫁さんなの? 絶対ノクの方がレース似合うって! 僕はお婿さん!」 「そうかぁ。じゃあ、それは大人になってから決めよう。背が低かった方がお嫁さんで、どう?」 「受けて立つ!」 「ふふ、 言ったね?」  数時間前、あの集落で流れた血を思えば、私達の声は、余りにも場違いなもので御座いました。  亜人達が、まるで幻でも目にしたかのような顔をしているのが映っていたのです。  私達はそれを知らぬのではありません。忘れているのでもないのです。  ただ──互いがここに在ること、それだけが、この瞬間の世界の全てだったので御座います。  我々がこの施設へ保護されてから、数ヶ月が経った頃で御座いましょうか。  リズの様子が、少しずつ崩れていったのです。反応は日に日に薄れ、直ぐに私の羽根へ包まれたまま眠ってしまわれるようになってしまいました。  私は、この施設に何か問題があるのではないかと思いまして、我々との接触が最も多く、どの亜人よりも優しい、あの方の過去を視てしまったので御座います。  ……ふふ。  そこで見たものは──  机の上へ積まれた記録。  日記。  実験報告書。  理事長宛ての手紙。  そして、  羽根を失った悪魔を庇うように、天使が青白い翼で包み込み、共に眠っている写真。  そうでしょう?  ですから、月の天使は理解してしまったのです。あの太陽の悪魔を守る為に、  最も愛しいものほど、この手で遠ざけねばならぬのだと。  ──担当研究員の日記と写真  天使の子と悪魔の子が研究所に収容されてから、二ヶ月が経過した。  天使に研究の意図や、悪魔が暴走した本当の原因を悟られぬよう、本来であれば二人を接触させたくはない。しかし引き離すと、悪魔の方が著しく情緒不安定となり、凶暴化の兆候を見せる。  その為、現在は一日三回、一回につき一時間の面会を許可している。勿論、常に監視付きだ。  面会の際、彼らは決まって書斎で過ごしている。  他の被験体が立ち入ることのない場所であり、静かで、人の気配も少ない。彼らにとっては、あの空間が最も落ち着ける場所なのだろう。  観察していて、毎度のように思う。本当に、彼らは可愛らしい。  悪魔の子が羽根を失ってからというもの、天使はそれが気にかかるのか、二人きりの時はいつも自分の羽根で彼を包んでいる。そのまま並んで眠ってしまっていたことがあり、  その時は、つい、写真を撮ってしまった。  ああ、どうにかして、この二人を逃がしてやれないものだろうか。  ──「Solvalute」末裔個体「Solis」  実験結果報告書  現状、当該個体を対象とした戦闘兵器化計画は、著しく不良な結果を示している。  投与薬品による生理的・精神的変化は確認されており、一時的な戦闘能力の上昇も見られる。しかしながら、被験体は研究員の指示・命令を一切受け付けず、特定条件下の対象を選択的に破壊させる試みはいずれも失敗に終わっている。  現在確認されているのは、無差別的な凶暴化及び強い破壊衝動の増幅のみであり、制御は不可能に近い。被験体本人への精神的・肉体的負担も極めて大きく、長期的な実験継続は不適切と判断される。  尚、本計画の存在及び実験内容が、同時収容中の天使個体に察知される可能性は高く、時間の問題と見られる。既に実験過程において研究員数名の死亡事故が発生しており、これ以上の人的被害は看過できない。  天使個体を事前に排除する案も検討されたが、その場合、抗精神薬および安定剤による対症療法以外に、当該悪魔個体の暴走を抑制する手段は存在せず、結果的に状況を悪化させる恐れが大きい。  以上の理由により、当該研究計画の即時中止を強く要請する。  ──理事長への手紙  拝啓 理事長殿  実験開始より七日が経過いたしました。本日をもって、本計画に関連する死亡者数は四十七名に達しております。このままの状況が継続した場合、研究員の人的確保そのものが困難となる恐れがございます。  併せてご報告申し上げます。  先日、対象個体がかつて属していた集落について調査を行ったところ、当該集落の長が残した記録を確認致しました。そこには、両個体が特殊な「加護」を受けていた可能性が示唆されております。  すなわち、天使個体は過去透視、悪魔個体は未来予言の能力を有していたとの記述でございます。  万一、本研究の実態および意図が天使個体に察知された場合、当研究所のみならず、計画全体が致命的な破綻を迎える可能性は極めて高いと判断いたします。その結果は、もはや制御の範疇を超えたものとなりましょう。  以上の理由により、誠に僭越ではございますが、当該実験計画の中断を速やかにご決断いただきたく、ここに強くお願い申し上げます。  敬具    リズへの実験は中断されましたが、案の定、代償として私達は引き離されてしまいました。  勿論、外へ逃がすことなどは許されません。  私達が、互いの為に何をしてしまうのかなど、亜人には到底理解できなかったのでしょう。  ですから、私は計画を立てたのです。  過去透視で巡回の隙、記録の改竄、非常電源の切替、下水路の時間差解放──  直接手を汚さず、少しずつ、逃げ道を未来に仕込みました。  深夜零時、書斎へ来るよう綴った手記を残しまして。  再会したあの子は、私を見るや否や、まるで、亡霊でも見てしまったかのような顔をしておりました。  しかし、これが現実だと解った瞬間、リズは、豹変致しました。  泣きながら、私を問い詰め、床へ押し倒して。  そして、私の左羽根を、酷く、酷く強く掴んだのです。  ……もう、飛んで行ってしまわぬようにと。  ふふ、とても嬉しいことに。  ……とうとう。  私の羽根は、あの子の手で千切られてしまったのです。    私は一切抵抗致しませんでした。  リズへの贖罪であり、同時に、あの子の私への執着が確かめられる瞬間でも御座いましたから。  リズは骨の折れる音を聞いた瞬間、正気に戻ってしまわれました。  だからこそ私は、左羽根が千切れてしまうその時まで、私を離そうとするあの手を離させなかったので御座います。  完全に千切れてしまった途端、あの子の顔からは、みるみるうちに色が失われていったのです。 「……ちが、っ…僕、は……」  震える声で、何かを言おうとしておりました。  けれど私は、その罪の意識が、完全にリズの胸へ根を張ってしまう前に、遮ってしまいたかったので御座います。  ですから私は、直ぐに立ち上がり、  無理にでも、別の現実へ引き戻して差し上げたかったのです。 「……ふふ。リズ、見てください。  覚えていますでしょう?幼い頃の約束を。」  リズは、涙で濡れた顔のまま、呆然と私を見つめておりました。  幼い頃は、殆ど同じで御座いましたのに。  今となっては、見上げているのは、リズの方だったのです。 「背の低い方が、お嫁さんになる──そう、お約束したではありませんか」 「……俺の方が、低い……」 「えぇ。約束通りで御座います」  その瞬間だけは。  ただ、互いだけが在ったのです。  ですから我々は、その場で、酷く簡素な誓いを立てました。  まるで幼子の遊戯のように。  けれど、呪いにも似た熱量で。  ……しかし、時間切れでしたね。  ですから私は、誰にも見せず、記録にも残さず。  あの子達を攫ったのです。

0
0
[XVIII]THE MOON(Nox)

[II]THE HIGH PRIESTESS(Perfy)

 Confessional Lucis  何が正しいかだけを考えて生きていました。  それが、堅実さであり、誠実さであると信じていたからです。  町の人々は、私を「Perfy」という名のシスターとして知っていました。  ですが、その姿に至るまで、私は何度も小さな身体を縮め、暴力から逃れる夜を重ねていたのです。  私は、人の声よりも先に、足音と怒鳴り声を覚えてしまいました。  殴られ、蹴られ、売られ、価値のないものとして扱われる日々。学校も、友も、名前を呼ばれる喜びも知りませんでした。家の隅で小さくなり、息を潜めている時間だけが、安全だったのです。  ある夜、私は反射的に親の腕を振り払ってしまいました。それだけで、全てが崩れたのです。  怒声と共に向けられる殺意。  投げつけられる刃物。  歪んだ笑い。  あの時の音だけは、今でも少し苦手です。  鍵が開いた窓から外へ飛び出しました。目的も意味もありません、ただ「生きたい」という衝動だけを抱えていました。  闇に呑まれた街を、転ぶように走り続けたのです。  やがて私の足は動かなくなり、見知らぬ屋敷の裏口で力尽きてしまいました。  夜明け前でしょうか、私は町外れの屋敷の裏口で眠ってしまいました。目を覚ましたとき、黒い花のような衣を纏った人物が立っていました。  薬草と古い紙の匂いをまとった、知的で穏やかな声の持ち主でした。  彼女は薬師であり、魔女であり、かつて教会で神として祀られていた存在の生まれ変わりでもありました。今となっては、彼女が神であった事を知る者は誰も居ませんでした。  彼女は倒れ伏した私を見下ろし、低く息をついて、優しく確認してくださいました。 「……生きているね。」  私は私に触れてくる全てが恐ろしくて、微かに目を開き、反射的に身を縮めました。  ですが彼女は外套を外し、私にそっと掛けてくれました。 「寒いだろう」  それ以上の言葉はありませんでした。  これが、私が初めて受け取った「条件のない行為」でした。  あれほど温かいものに触れたのは、後にも先にも、あの時だけだったように思います。  あまりにも優しくて、白い寝台で目を覚ました私は、自分が死後の夢を見ているのだと思いました。  清潔な布、柔らかな光、血の匂いのしない空気。  信じられなくて、頬をつねると、確かな痛みがありました。  夢ではない。それだけで、胸が苦しくなったのです。  彼女は私の様子を見に来たついでに、温かい食事を用意してくれました。 「驚かせてしまってすまない、机にパンとスープを置いておいたから、好きな時に食べて、休んでいなさい。何かあれば地下にある製剤室に来てくれて構わない。僕はそこで仕事をしてくるよ。」  警戒で固まる私に無理強いはせず、地下に製剤室があることだけを告げてくれました。    次の日の午時でしょうか。  地下の製剤室で再会した彼女は、私から距離を保ったまま、小さく屈んで尋ねました。 「おや、もう大丈夫なのかい?お嬢さん。」  彼女は、私に危害を加えるつもりはない。と、それを証明するかのように、ある程度の距離を取りつつ、無防備に背を向けて昼食へ誘ってくれたのです。  卓のそばへ導かれ、椅子を軽く引いていました。 「座って待っていてくれ。すぐ用意する。」  促されるまま、私は小さく頷きました。 「……はい。ありがとうございます。」  私の声はまだ、糸のように細く、震えを含んでいました。  彼女は台所へ向かいながら、何気ない調子で振り返ってみせました。 「君みたいな可愛らしい山羊が倒れていて、少し驚いたよ。何があったのかは聞かないでおくよ。  ただ……君の名前だけ、教えてもらってもいいかな。」  私は突然の質問に一瞬言葉を失い、指先を絡めるようにして俯いてしまいました。 「え、えっと……」  その様子を見て、思い直したのでしょうか、首を振って、先に自己紹介をしてくださいました。 「おっと、失礼。先に僕が名乗るべきだったね。  僕はInficila。薬にはちょっとだけ詳しい、ただの魔女さ。  約束しよう。君を傷つけることはしない。  だから……よかったら、名前を聞かせてほしいんだ。」  未だ恐怖は残っていて、私は意を決して口を開きました。 「……Perfy、です。」 「Perfy。」  彼女はその名を小さく反芻しました。 「綺麗で、それでいて芯のある名前だ。  何を裏切ったとしても、自分の正しい道を歩いていけそうな――そんな響きだね。」  私はその意味を完全には理解できず、ただ耳を伏せることしかできませんでした。  やがて台所に温かな香りが満ち、卓の上に皿が並べられました。  赤いトマトのパスタ、透き通った橙色の果汁、色鮮やかな野菜と果物。  私はそれを、まるで夢の中の光景でも見るように見つめていました。 「さあ、食べようか。」 「……食べて、いいんですか。」 「もちろん。」  私は恐る恐る口に運び、次の瞬間、思わず目を見開きました。  生まれてから一度も知らなかった温度と味が、胸の奥へ静かに落ちてきたのです。 「……おいしい。」  彼女は小さく笑っていました。 「それなら良かった。」  暫くして、私はぽつりと尋ねました。 「どうして……こんなに、優しくしてくれるんですか。」  彼女は少し考え、それから当たり前のことを口にするように言いました。 「ここは、これから君の、ペルの家だ。優しくしない理由がないだろう?」  私は息を呑んでしまいました。 「……わたし、ここにいても、いいんですか。」 「ああ、勿論。」  その答えには迷いがありませんでした。 「勉強も教えるし、暮らし方も教える。  慣れてきたら、街の大きな教会で修道女の見習いになるのもいい。君には、そういう生き方が似合う。」  それが嬉しくて、堪えていたものが静かに溢れ落ちてしまいました。  私は言葉を探すより先に、唇を動かしていました。 「……ありがとうございます。お母様。」  彼女は一瞬だけ目を瞬かせ、それから困ったように、私に笑ってくださいました。 「おや。僕が、お母様か。  それなら、そう呼ばれるに恥じないよう、努力しよう。」  私は何度も頷きながら、涙を拭いました。  このときだったのかもしれません。  私の背に積もっていた長い冬が、終わったのは。  私は学び、祈り、静かに成長することができました。  お母様の屋敷と教会を往復しながら、誠実に、誰よりも丁寧に生きるよう、精進してまいりました。  過去は追ってこないと信じていたのです。  夕暮れ、街角で、声をかけられるまでは。  母のヒステリックな呼び声、父の荒い手。恐怖で声が出ず、世界が遠のいていきました。  ですが、その前に、黒い影が立ったのです。  Inficilaでした。  彼女の短い問答のあと、鎌が振るわれました。音は、あまりにも静かでした。  それで終わったのです。 「Perfy……ごめんなさい。ママが悪かったわ。」  母は急に声の調子を変え、縋るように名を呼んできました。 「あなたのことが大切だから、つい厳しいことを言ってしまうの。  わかるでしょう? だから……魔女なんかと一緒にいないで、ママと帰りましょう。」  甘さを塗り重ねた言葉でした。けれどその奥にあるものを感じ取ってしまい、嫌気が差しました。  魔女は、お母様は私だけを見てくださいました。 「ペル、どうしたい?」  私は震えながらも、答えてしまいました。 「……消えて」  それだけで、鎌が再び応えたのです。  それからの日々は穏やかなものでした。  食事を共にし、夕暮れには今日の出来事を語り合う。血は繋がらずとも、確かに家族だったのです。  ですが、お母様は少しずつ変わっていきました。  手が震え、咳が増え、夜になると深く眠る。理由は語られませんでした。 「寿命ではない」  それだけを残して。ある日、彼女は姿を消したのです。  寝室には、インクが乾ききらぬ手紙だけが残されていました。  ーー僕の愛する Perfy へ。  どうやら、僕の命もいよいよ時間切れらしい。そう覚悟していたのだけれど、思いがけない救済が訪れた。最後に君の顔を見ることが叶わなかったのが、ただ一つの心残りだ。  それでも僕は、相変わらず愚かなくらいに欲深い。まだ生きていたいし、まだ知らないことを、この目で確かめていたい。だから急で勝手だとは思うけれど、ここで別れを告げる。  ペルは、あの神話を知っているだろうか。ひとつの世界を滅ぼした、狐の神の話だ。もし知らなかったら僕の書斎にある、白い狐が描かれた本を開くといい。  彼……いや、彼女、かな。とにかく、その存在が僕を救ってくれた。  あまりにも荒唐無稽で、僕自身、長い間まったく信じていなかった神話だ。それが現実に存在していたと知って、僕は自分の未熟さを思い知らされたよ。そのおかげで、また少し、知識への渇きが深くなってしまった。  本当は、もっと君に伝えたいことがある。けれど、残された時間はそれを許してくれないそうだ。  もし君に、どうにもならない出来事が起きたとき。僕は、もうペルを助けてやれない。そんな時は、教会に残されているものを探しなさい。今では朽ち果てた、かつて神が使っていたものだ。  この手紙のことは、誰にも話さなくていい。君は、僕がいなくても生きていける。  何を裏切ることになったとしても、最後には必ず、自分の選んだ道を歩ける子だから。  泣き虫で、優しくて、どうしようもなく愛しい僕の娘へ。  また、どこかで逢おう。  Inficila    街の人々は、お母様の存在を忘れていました。  最初から修道女が一人で住んでいたと。そう、記憶が書き換えられていたのです。  お母様が居なくなってからも、私は修道女としての日々を続けていました。  最初の頃は、朝になる度に屋敷を見回ってしまったものです。  製剤室の扉、書斎の机、使いかけの薬瓶。  どこかにお母様が残っている気がして、何度も、何度も探してしまいました。  ですが、どれだけ待っても帰ってくることはありませんでした。  ですから私は、お母様に教えられた通りに生きることにしたのです。  祈りを捧げ。  困っている人を助け。  噓をつかず。  正しいと思ったことを選ぶ。  それだけでした。  教会の子どもたちは、よく私のところへ来ました。  勉強を教えてほしいという子もいれば、ただ話を聞いてほしいと言う子もいました。  私は特別なことをした覚えはありません。  けれど気付けば、  「Perfyさんに聞けば大丈夫」  と言われるようになっていました。  少しだけ、くすぐったかったのを覚えています。  冬には年配者たちの家を回り、夏には病人の看病をお手伝いしていました。  時には、教会の神父様より先に相談を持ち込まれることもありました。 「あなたなら正しいことを教えてくれるから」  そう言われる度に、私は困ってしまいました。  私は正しい存在ではありません。  正しくあろうとしているだけなのですから。  それでも町の人々は私を信頼してくれました。  子どもたちは私を慕い、  年配者たちは私を孫のように可愛がり、  教会は私を誇りある修道女だと言いました。  ですから、あの夜。  双子を抱いて教会を飛び出した時。  誰よりも驚いていたのは、きっと彼らだったのでしょう。  おおよそ二年後の事です。  忌み子の双子が生まれ、処刑が決まりました。  私は祈りながら、自分の幼少期を思い出しておりました。  何も知らず、何も選べず、捨てられる命に、自身の過去を重ねてしまうのです。  私は意を決しました。  夜の教会で、私に応えるよう、ガラスの鎌が月明かりに照らされていました。  手にした瞬間、私に魔力が生まれたのです。  そのまま赤子を抱え、砕けたステンドグラスを越えて、逃げました。  夜の街を駆ける私の足に迷いはなく、ただ前だけを見ていました。  かつて、鍵の開いた窓から飛び出した夜がありました。  目的も意味もなく、ただ「生きたい」という衝動だけを抱えて。闇に呑まれながら走り、やがて力尽きたあの夜です。  ですが今は違いました。  「守りたい」という意志を抱えて、私は走りました。  足が軋んでも、それでも止まりませんでした。  あの夜のように崩れ落ちることはなかったのです。  背後で叫び声が上がりました。 「裏切りの魔女」  ですが私は振り向きませんでした。  森の奥深くで、私は双子を育てました。  名は Ilia と Cilia。  それは、かつて敬愛した偉大なるお母様から取った名でした。  その名を授け、言葉を教え、抱き寄せながら、せめてこの子たちの中には世界の優しさだけを残そうとしたのです。    ですが、魔女狩りは既にすぐそこまで迫っていました。  私は涙を隠すように微笑んでみせて、双子の前に膝をつきました。 「お母様? そんなに急いで、どうしたのです?」 「あのね……少し遠くまで、木の実を採りに行ってくるの。遅くなるから、そのことを伝えに来ただけよ」 「そうなのですか? 気をつけて行ってきてくださいね!」  とても、無邪気な声でした。  その顔を最後に見られたことに安堵しながら、胸の奥が焼けるように痛みました。  これで本当に、永遠の別れになる。  逃げ続ける未来も、死ぬ未来も、この子たちには背負わせられなかったのです。  私は泣きそうになるのを堪え、二人を抱き寄せました。 「……私がいなくても、元気でいて下さいね。」  返事を待たずに背を向けました。  台所へ向かい、棚の奥に、手紙とわずかなお金を残しました。  守るためでした。それだけでした。 「Ilia……Cilia……ごめんなさい。どうか、元気でいてください。」  私は振り返りませんでした。振り返れば、連れて行ってしまうから。    私は人の気配の濃い方角へ進みました。狙われるのは、双子ではありません。  わたくしですから。  あの頃にはもう、自分が長く生きる姿を、上手く想像できなくなっていました。  ですが、追っ手に囲まれ、傷を負い、膝をついたそのとき、風が止みました。    ……白い狐が、静かに闇の中から現れました。  その存在は現実と夢の境界のようで、魔女を黒い霧で包み、光の歪みの中へ溶けて消えたのです。  人々の目には、きっと、ただ魔女が「消えた」ようにしか映らなかったでしょう。  彼女が救った命も、裏切った規則も、選び続けた正しさも、すべては語られぬまま残されました。  森の奥で、双子は成長しました。母の名を、祈りのように抱えながら。  修道女について語る者は、もう誰もいません。  けれど私は、未だに忘れることができないのです。  あれほど静かに、正しくあろうとした人を。  ただ、朝になる度、  森のどこかで、ガラスの欠片だけが静かに光るのを、私は知っています。

0
0
[II]THE HIGH PRIESTESS(Perfy)