ゆう

4 件の小説

ゆう

視線

一人のときでも、たまに丁寧に生きている。 誰に見せる予定もないのに、床に落ちた髪の毛を拾ったり、 コップの縁をちゃんと拭いたり、 タグを切ったままの服を、今日は着ないと決めたりする。 理由はない。 予定もない。 それでも、雑にしていい感じがしない。 包丁を洗うとき、刃の部分を避ける。 火を止めたあと、もう一度だけ元栓を確かめる。 カーテンを閉める角度が、少しだけ気になる。 誰も見ていないはずなのに。 丁寧にしている時間ほど、 部屋の空気が澄んで、 視線のようなものがはっきりする。 責めるわけでも、褒めるわけでもない。 ただ、「今のは見た」と言われている気がする。 それが何なのかは分からない。 過去の自分かもしれないし、 なれなかった誰かかもしれない。 あるいは、まだ先の自分。 夜、電気を消す前、 もう使わないはずのマグカップを伏せる。 その動作が、少しだけ祈りに近いと気づく。 一人でいるのに、 独りきりではない感じ。 でも、それを確かめるために 誰かを呼びたいとは思わない。 見られている気がするから、丁寧なのか。 丁寧にしているから、気配が生まれるのか。 分からないまま、 今日も部屋は静かで、 自分はちゃんと、そこにいる。

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無力感

新人だから、余計なことはしないほうがいい。 それは正しい。たぶん、今も。 分からないことに手を出して、 「聞いてない」「違う」と言われるより、 待っていたほうがいい。 そう教えられて、私はそれを守っている。 でも、仕事が途切れた瞬間、 自分の手が止まっていることだけが、 やけに大きく感じられる。 椅子に座ったまま、画面を見る。 もう一度確認する。 終わっている。 間違っていない。 それでも、 この「何もしていない時間」が、 評価にどう残るのか分からなくて怖い。 周りは忙しそうだ。 音がある。動きがある。 自分だけが、 一時停止されたみたいに静かだ。 立ち上がるのも違う気がする。 聞くことがないのに、 「何かありますか?」と聞くのも違う。 何もしないことが正解なはずなのに、 何もしない自分を、 誰かが見ている気がする。 休んでいると思われたらどうしよう。 やる気がないと思われたらどうしよう。 新人のくせに、 空いている時間を持て余していると思われたら。 結局、 さっき見た画面をもう一度開く。 意味のない確認を重ねる。 仕事をしている“形”を、 必死に保つ。 本当は、 早く慣れたいだけだ。 ここにいていいと思いたいだけだ。 でもそれを表に出すほど、 余裕がない人みたいで、 今日も黙って座っている。 ——何もしないでいる時間が、 いちばん、心を使う。

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自己満だよな

誰かに話しかけられると、私は一生懸命聞こうとする。 相槌のタイミングを間違えないように、 相手の言葉を途中で切らないように、 どうでもいい話でも、ちゃんと覚えておこうとする。 たぶんこれは、 自分がそうされたら嬉しいからだ。 自分の話を、 価値があるものみたいに扱われるあの感じ。 途中でスマホを見られないこと。 「へえ」で流されないこと。 だから私は、 相手の話に居場所を用意する。 でも気づくと、 同じように返ってくることはあまりない。 みんな、悪気はない。 聞いていないわけでもない。 ただ、そこまで深く考えていないだけ。 話は、空気みたいに流れていって、 受け止める人がいなくても成立するものだと、 知っている人たち。 私はたまに思う。 この一生懸命さは、 親切なんだろうか。 それとも、 自分が欲しかったものを勝手に差し出しているだけなんだろうか。 誰かの話を聞きながら、 「これをしてもらえたら、私は救われただろうな」 と考えてしまう時点で、 もう対等じゃないのかもしれない。 それでも、やめられない。 雑に扱えない。 言葉を、軽くできない。 たぶん私は、 世界が思っているより、 言葉を信じている。 だから今日も、 誰かが話し始めたら、 少し前のめりになって聞いてしまう。 そのことを、 誰にも気づかれなくても。

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今日を終わらせる方法

仕事は毎日、同じ時間に始まって、同じように終わる。 コピー機の音、誰かの咳、愛想笑い。 失敗はしないけど、うまくもいかない。 家に帰るころには、心が薄くなっている。 玄関を開けると、ねこがいる。 床に落ちた影みたいに、当たり前の顔で。 「ただいま」 返事はないけど、ねこは来る。 胸に顔をうずめて、ねこを吸う。 あったかくて、少し埃っぽい匂い。 肺の奥まで、安心が入ってくる。 それだけで、今日が終わってもいいと思える。 明日も同じ仕事で、同じ失敗をして、 それでも帰ってきて、ねこを吸う。 それが生きるってことなんだと思っていた。 ある日、仕事で大きなミスをした。 謝って、頭を下げて、帰り道で泣いた。 今日は吸っても元気出ないかもしれない、と思いながら。 でも、ねこはいなかった。 胸が冷たくなって、名前を呼んで、部屋を探して、 そのとき気づいた。 この部屋、最初から一人用だったこと。 ペット禁止だったこと。 写真も、毛も、爪とぎも、どこにもないこと。 じゃあ、今まで吸っていたのは何だったんだろう。 鏡を見ると、私は少しだけ息を整えていた。 泣いた顔だけど、生きている顔だった。 その日から、ねこはいない。 でも帰るたび、胸に顔をうずめる癖だけが残った。 不思議と、前より少しだけ、仕事に耐えられる。 たぶん私は、ねこを飼っていたんじゃない。 生き延びるための、あたたかさを、 自分の中で飼っていただけなんだ。

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