CherryBlossom

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CherryBlossom

なんとなくかいてみたよ。 見てくれた人ありがとうございます。

私が鬱になった理由

生きてるのが辛い。 楽になりたい。なんて私だけこんな目に。 いつからだろう。 私の中から嬉しいと楽しいの感情が 無くなったのは… 1996年20歳の母と25歳の父の間に 私は産まれた。 父は私がお腹の中にいる頃からお酒を 飲むと豹変していたという。 妊婦の母のお腹を蹴ったりと暴力が 耐えなかったと祖母から聞いた。 幼少期の記憶が今でも鮮明に蘇る。 毎晩のようにお酒に溺れ暴力を奮う父に 耐えきれなかった母は、外に男を作る ようになった。 父は長距離トラックの運転手で2-3日 仕事に行き、2日休みという生活だった。 父が仕事に行き、私が寝た夜中に、母は 出かけていくのだった。 いつからか私は、隣で寝ていた母が 居なくなる気配を感じ始め、気づいては 大泣きしていた。 母の電話番号を知っていた私は夜な夜な 「どこにいるの?」 「何時に帰ってくるの?」 と母に電話をしていた。 またある日、母が夜中に出ていった日 いつものように泣きながら母に電話をした。 母は何度かけても出なかった。 私は父に電話をしたのだ。 「お母さんがいない」 その後の記憶はあまりないが 仕事から帰ってきた父と母。 私が寝静まった頃だろう。 声と物音で起きた私は別の部屋で 怒鳴っている父を見た。 父は母を壁側に押し付け、殴っていた。 私は泣きながら 「お父さんやめて」 と訴えた記憶がある。 私は不倫なんて言葉すら知らなかった。 当然のことながら殴っていた父を 悪い人だと認識していた。 母の職場に遊びに行く事もあり、 母は顔にできたアザを職場の人に こう説明していた。 「殴られた」 自分の不倫の事は一言も話してなかった。 不倫が発覚してから父は母のバッグや 携帯などを見るようになった。 ある日、母がお風呂に入っていた時、 父がバッグを見ようと言ってきた。 バッグの中の財布には男と写っている プリクラが入っていた。 父はそれを見た瞬間に激怒し、お風呂に 入っている母を蹴りつけた。 母は泣きながら何度も何度も謝った。 そして父と母は喧嘩をする度 仲直りのSEXを必ずするのだ。 父と母の性交渉は何度も見てきた。 小学生1年生くらいの出来事だった。 そして外に男を作っていた母は 相手がころころ変わっていた。 夜中に電話をされるのが嫌だったのか 私を男の人の所へ一緒に連れていって いたのだ。 お兄ちゃんは優しい人。と認識した。 もちろん学校の友達とも遊ぶ事が 多くあったが、友達のお兄ちゃんが 怖かった。 友達と遊んでいたら急に服の中に 手を入れてきたりする事があった。 母に言う事もできず我慢した。 それから小学三年生になった頃 また父と母が大喧嘩し、離婚の話で 揉めていた。 泣いている私に父が 「お父さんとお母さんどっちがいい?」 と聞いてきた。 私は2人が好きだった。でも母を殴る 父は悪い人だと認識していたので 「お母さんがいい」 と答えた。 後日、父が仕事に行ったあと、 知らない男の人と知らない 女の人と少し年上の女の子が家に来た。 家の荷物を運び、引越しするよと言われた。 出ていく寸前に母がテーブルの上に 指輪と離婚届を置いていくのを今も 覚えている。 引越しをし、新しい家に住み始めた。 母と二人で平和な生活になるんだと 思っていた。 しかし、夜逃げをした私と母。 父はもちろん激怒。 毎日のように電話がかかってきた。 「どこに住んでるの?」 母からは隣で答えるなと紙に書いて 言わされていた。 父からの電話が来なくなった。 たぶん、離婚が成立したのだろう。 小学3年生の冬、母から新しい お父さんだと紹介された。 引越しの時来ていた知らない男の人。 理解出来なかった。いつまで経っても その人をお父さんとは呼べなかった。 その人はゲーム機や可愛い筆箱など たくさん買ってくれた。 優しい人だと思っていた。 新しい学校で部活動を始めた。 強豪チームで監督からはビンタを される日もあった。 よくある昔の厳しい監督だった。 チームも強かったので頑張れた。 その先生はのちに暴力で保護者から 訴えられていたが、先生の事は チームメイトみんなが好きだった。 小学校4年生頃から新しい父と 暮らし始めた。 洗濯、洗い物、料理などの家事を 教えられた。 父と母はなんの仕事をしていたのか しらない。 たぶん飲み屋で働いていたのだろう。 部活動が終わったら家事をして 1人でレトルト食品を食べ1人で寝る 生活をしていた。 そしてここでもまた、母と新しい父との 性交渉を何度も目撃する。 喘ぎ声がうるさくて寝れない日もあった。 壁を叩いてうるさいとアピールした。 小学5年生になった。 母が妊娠した。 妹ができるのは正直嬉しくなかった。 お母さんが取られると思ったから。 父は家事と部活動、勉強がグダグダだった 私を叩いて叱るようになった。 部活動の顧問も叩いてるから良いだろと。 それから暴力はエスカレートし父と母が 喧嘩する度私に飛び火していた。 妹が生まれてまもなく、包丁を持ち出して 妹を抱き抱えたままタンスに刺した事も あった。母にはどうもできなかった。 ある時父と母が飲み屋を経営し始めた。 妹は飲み屋でミルクを飲んで育った。 私は飲み屋で妹の面倒を見て ご飯を食べる時もあった。 飲み屋のおねぇさんたちは優しかった。 学校がある私は相変わらず家で 1人の時間がほとんどだった。 テーブルに今日のご飯が書かれた メモ書きが置いてあるだけ。 夕方眠たくなり、うたた寝していると 帰ってきた父に蹴り起こされる事もあった。 父は夜中に帰宅しては洗濯物の干し方や 片付け、勉強について私を起こして 怒鳴り散らし、暴力を奮った。 母は何もしてくれなかった。 止めに入ると自分が標的になるからだ。 飲み屋の経営も上手くいっておらず 2人してパチンコ。 父のお酒とタバコ。 常に貧乏だった私たち。学校の給食費は もちろん、部費や部活動の時のお昼ご飯 のお金も無かった。 毎回毎回催促状が来ていた。 小学6年生、部活動は辞めざるを得なかった 大好きだった部活動。 お金ではなく、私が勉強と妹の面倒、家事 を両立出来ないからと辞めさせられた。 中学生になり暴力はもっとエスカレートした 部活動にまた入ることが出来たが もっと両立出来なくなった為、1年生 で辞めさせられた。 学校が終わり17時までに帰らないと 父から怒られていた。 友達と帰ることも許されなかった。 家に帰ると家事、妹のお世話、勉強 の繰り返しだった。 夜中の2時になると父の足音で目が覚める。 蹴り起こさるか叩き起され4時すぎまで 説教と暴力を受ける。 毎日だった。 学校がとっても楽しかった。 家に帰りたくないと毎日思っていた。 中学3年生になっても続いてた。 アザを作って学校に行き、友達に 聞かれても誤魔化していた。 ある時、担任の先生が声を掛けてきた。 「大丈夫?」 「なんかあった?」 言おうとしたけど言ったことが父に バレるともっとやられると思った。 その時は大丈夫。と答えた。 でも、家に帰りたくなかったので 先生にあとで時間下さいと言った。 先生に父から暴力を受けていると 相談をした。 先生は 「あなたいつも元気だから気づかなかった。ごめんね。」 と言ってくれた。 ほかの先生も抱きしめてくれた。 頑張ったねと言ってくれた。 すぐに母に電話がいき、母も動いてくれた 母方の祖母がいる県外へ行くように 話が進んだ。 後日、家に帰ると父方の祖父が居た。 父方の祖父は私の味方だった。 血が繋がってないけれど心配してくれた。 そう。今日やっと父から開放される。 怖かった。またやられる。 でも守ってくれる人達が居たから 勇気が出た。 父がお風呂に入っている時に家を出た。 妹と離れるのは悲しかった。 その後 母方の祖母と父が揉めたそうだ。 黙って連れて行ったこと。 父の暴力の事を怒ると逆ギレ してきたらしい。 父は自分が悪いと思いたくない、 悪い事をしていると思っていない人だ。 それでも理解してもらえず、 父の姉の家にすぐに移送された。 母と母方の祖母は親子の縁を切る羽目に なったらしい。 父の姉の家、いとこの家でもある。 新しい学校ではすぐに友達が出来た。 いとこの家での生活が始まった。 いとこは6つ年上。 いとこの友達が遊びに来る事もあった。 その友達はやたらと私に触れてきた。 気持ち悪かった。でも言う事ができず 我慢していた。 高校入学の問題がでてきた。 そのまま県外の高校へ入学する つもりだった。 母から電話が来た。 大好きだった部活動を再開したいと いうのを叶える条件で家に戻る事になった。 でもその願いが叶う事は無かった。 父は働いていなかった。 母が朝から夜までかけ持ちして 働いていた。 家にもどり待っていたのは 洗濯、掃除、料理、妹の世話、犬の世話。 そしてもちろん勉強。 高校2年生頃から 父から急に言われた。 「明日からお前が妹を保育園に 連れて行け。」 保育園は歩いて30分~40分の 坂を登らないと行けなかった。 毎朝妹と早く起き、保育園の準備をし 一緒に保育園に行った。 高校に遅刻する時もあった。 そして家に帰ると妹を迎えに行き 公園に遊びに行った。 帰るとご飯の準備をして妹とお風呂に入り 洗濯機を回して、妹を寝かしつけ、 洗濯物をたたんで、干しての毎日。 夜中になるとまた父からの暴力。 朝方まで続くこともあった。 ガラスが割れることもあった。 頭から血が流れることもあった。 耐えきれなくなり、自分の体を 傷つけて満足したこともあった。 その傷は一生消えないものとなった。 母は父と喧嘩すると外に出るようになった 時間を潰し、父が寝た頃に帰ってきていた。 私もそれを真似するようになった。 夜中に家を出ては暗闇を泣きながら散歩。 毎日毎日そうだった。 雨の日は人の家のガレージで雨宿り していた。 高校生活は友達と遊びに行く事もできず 遊んだのは3年間で2~3回だった。 高校を卒業し、就職した。 通帳と印鑑、カード全て母が管理した。 車もいるだろうと新車を契約させられた。 クレジットカードも契約した。 お金がいる時に母から貰っていた。 それが普通だと思っていた。 それからクレジットカード会社や 車のローン会社から何度も電話がきた。 「いつお支払い可能ですか?」 私は通帳も何も無いからどうにも 出来なかった。 最終的に何もしていないのに ブラックリストに登録された。 それが嫌でいとこに相談した。 通帳とカードを返してもらう事にした。 でも、父が働かない分の生活費に 当てられていたので返して貰えなかった。 何度言っても無理なので母のバッグから とりあげた。 勝手にとった?と連絡があった。 もう返してくれ。とお願いしたが 母も資金繰りが下手な上に精一杯 だったので上手くいかなかった。 21歳になった頃、出会い系サイトで 誰かに助けを求めようとした。 1人の男と会った。 私たちは付き合い始め、 家族の話をした。俺の家に来いと 言ってくれた。 少し離れていたので家出をした。 父はもちろん激怒。 彼氏と同棲をするからと荷物を持った。 彼氏と暮らし始めた。 でも、この彼氏もまたDV男だった。 性的暴力、身体的暴力、精神的苦痛も 与えられた。 我慢できずに母に電話をした。 「私は殴られる為に産まれてきたの?」 父が助けにきてくれた。 でもその彼氏から離れる事ができず 暴力を受けては謝られての繰り返しで 依存状態になってしまったいた。 しばらくしてその彼氏の子どもが出来た。 嬉しくなかった。 子どもを殺す事はできないから 1人でも産もうと思った。 妊娠してからも彼氏の暴力は続いた。 お腹を狙って来る事が多かった。 赤ちゃんがいるからやめてくれと 言っても笑っていた。 翌月の検診で赤ちゃんの心臓が 止まっていた。流産だった。 染色体異常だと言われた。 涙が出た。 すぐに胎児摘出手術を受けた。 しばらく放心状態が続き実家に帰った。 実家に帰るとまたあの毎日が 戻ってきた。 耐えられなかった。誰かに助けを 求めたかった。 家族の問題だからと出来なかった。 毎日死にたい。死にたい。 どうやったら楽に死ねるか 考えていた。 自分がおかしいと思い始め 母と一緒に精神科に行った。 鬱だと言われた。 先生に相談したら家を出るしかないと 言われた。 ごもっともだと思った。 同じ頃父も母と精神科に行ったそうだ。 重度のアルコール依存症。 診断されてもお酒が減ることは無かった。 23歳の頃、妹についてきてもらい 家を探し始めた。 1人暮らしを始める決心をした。 貯金も何も無い。不安だった。 家を決め、契約をしてから父に報告した。 もちろん罵声を浴びされたが どうでもよかった。 引越しまでの1ヶ月、父方の祖父の家に 居候することになった。 契約金支払いの日、1ヶ月分の給料を 持って支払いに行った。 荷物を持って引越し作業の日。 友達が手伝ってくれた。 家具や家電も何も無い。 クレジットカードで買った。 借金からのスタート。慣れている。 引越ししてから毎晩夜中に父から 電話がかかってきた。 最初は出ていたが説教だったので 出なくなった。 しばらくするとかかってこなくなった。 でも夜中の2~3時に目覚める週間や 涙が出る事もあった。 過去を思い出しては泣いていた。 情緒不安定でもあった。 一人暮らしを始めて 彼氏もでき、不眠症と鬱を抱えての生活 だったがなんとか生活できた。 だが、母からのお金の要求が凄かった。 生活費が足りない。 〇日までに払わないといけない。 毎月だった。 妹が習い事を始めた。 生活費すら足りないのにその習い事も 身の丈に合わないものだった。 その分私に要求してきた。 何度も何度も断り、一時期静まった。 それから父に言われた。 母が銀行から100万借入をしていたと。 そして自己破産したと言われた。 父が働けば100万なんてすぐに払える 金額だと思った。 誰が何を言っても働いてはくれなかった。 25歳の時母が病気になった。 入院費が足りないとお金を出した。 毎回お金の要求がある時は〇日まで には返すと言われるが 返ってきたことは1度もなかった。 それからも頻度は減ったものの お金貸してコールは止むことは無い。 そして26際の今、 お金貸してという連絡と 不眠症は今でも続き、闘っている。 先日、15歳の妹からもお金を貸してと いう連絡が来た。 泣きたくなった。 妹には「いくら身内であれ友達であれお金の貸し借りは絶対にするな。頼りたい時に頼れる人が周りから居なくなるよ。」 と助言をした。 子供にこんな事を言わせてしまう父と母は 何を目指しているのだろうか。 この記事を書きながら私の目からは 涙が出ていました。 私は今でも生きてるのが辛いです。 楽しいと嬉しいが全く感じません。 死にたい。早く楽になりたい。 と思うのは今も変わりません。 感じるのは不の感情だけです。 なぜ生きてるのかもわかりません。 ただ、よく周りの人に言われるのは 人の痛みがわかる分優しい。 人の話を聞くのがうまい。 色んな事をしてたから?仕事が早い。 料理が上手。 と言われます。 1人でなんでも乗り越えてきたぶん なんでも出来てしまう反面、 人への頼り方がわかりません。 キツくてもストレスで体調崩しても 自分でやると言って他の人を頼る事が できません。 今の私の課題は人に頼る事ですかね 過去の経験は不が多いと記憶に残り 過去に囚われてしまいます。 家族の事となると、友達や職場の人には 言えません。 1人で抱えるよりも頼る事が大事だなと 思うようになりました。 同じような経験をしてきた人はぜひ お話聞かせてくださいね。 長々とお読み頂きありがとうございます。

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私が鬱になった理由