追憶の短文集 「風と帆」
かつて、私には、一人の恋人がおりました。遠い外国へ、桜の香りを伝える春風のようでした。
私の隣にいる時、いつも、その華奢な身体つきより大きなジャケットを着ていたのを記憶しています。
空は晴れやかに、雲は垂れて温もりをはらむ。そうして、大きな風がこの砂浜に吹くと、大きな帆のようにジャケットを張らして、その人は風を受ける。
ある時、「添える小話もない船乗りの古着ですが、それをやるから、あなたのジャケットを頂けませんか」と尋ねました。
その問いに、「私が死んだら、そんな条件無しにあげますよ」と答えたその人の小さな声を、いたずらな風音とともに耳にしました。
二つ目の春を待つことなく、記憶は昔へ流れました。
「いつか、一緒に西洋の海まで行きませんか」と、秋めく水平線に向かって、心勇んで小さく言ったのを思い出します。もう寄せることの出来ない肩の温もりを思えば、ただ涙が頬を伝うばかりで。
今日も船がたった一艇、寄せては引きゆく波に、船体を揺らされつつ港にありました。
そして、春の来ない海辺のこの家にある古びた帆も、再び風を待つのです。