不惑の再起
不惑の再起 ―40歳からの少林寺拳法―
場末のスナック――
妖しく彩られたネオン街の一角に、ひっそりと灯る明かりがあった。
「スナックゆうこ」
終電まで、あと一時間余り。
カウンターの一番端。
背を丸めるようにして、ひとりの男がグラスを傾けている。
竹山 拳(たけやま・けん)――四十五歳。
「拳」という名は、親が何らかの武道に縁を持っていたらしく、
どんな期待を込めたのか、その一字を与えられた。
だが、格闘技も武道も経験のない竹山にとって、
この名前は正直、いい迷惑でしかなかった。
初対面の相手には、決まって聞かれる。
「拳? 何か武道とかやってるんですか?」
そのたびに、彼は曖昧に笑って首を振る。
やったことはない――
そう答えるだけで、自分がどこか劣っている人間のように感じてしまう。
拳は、幼い頃から運動が苦手だった。
走るのも遅く、跳ぶのも下手で、
球技ではいつも邪魔者扱いだった。
それでも、腐っても男である。
幼少期には仮面ライダーに憧れ、
正義の味方になって悪者をやっつけるのだと、
ライダーパンチやキックの真似をしては、
ひとりで興奮していたこともある。
だが、その夢は驚くほど早く打ち砕かれた。
保育園の年長の頃。
皆から「おしょう」と呼ばれていた、身体の大きな悪ガキに殴られた。
理由は分からない。
ただ、力の差だけがそこにはあった。
拳は、その一発で悟ってしまった。
この世界には、努力や正義とは無関係に、
「強い」というだけで成立する秩序があるのだと。
それ以来、彼はその世界から静かに足を洗った。
殴り返すこともなく、
強くなろうと願うこともなく。
代わりに彼が手に取ったのは、本だった。
言葉の中には、殴られずに済む居場所があった。
力を誇示せずとも、誰かと繋がれる道があった。
そうして拳は、
文学少年として成長し、
今日までを生きてきた。
名前だけが、
今もなお、彼に似合わない「拳」を名乗り続けている。
⸻
竹山は、スナックではウイスキーを嗜んでいた。
バーボンのオールドクロウ。
バーボンは、ウイスキーの中では比較的安価な酒だ。
一介のサラリーマンにとって、懐がさほど痛まない。
だが、拳がこれを選ぶ理由は、値段ではなかった。
文学少年として育った彼にも、
やはり「強さ」への憧れは残っていた。
現実では拳を振るうことも、
声を荒げることもできなかったが、
ハードボイルドの世界には、彼の逃げ場があった。
裏社会を描いた小説。
格闘技を題材にした物語。
妄想の中で、彼は負けなかった。
理不尽に耐える側ではなく、
悪者を打ち倒す側――ヒーローでいられた。
暴力を振るうことはできなくても、
暴力に屈しない男でありたかった。
だからこそ、ハードボイルドを好んだ。
中でも、俳優・松田優作は特別な存在だった。
不器用で、孤独で、
それでも決して折れない男。
【遊戯シリーズ】は、若い頃から何度も観返した作品だ。
画面の向こうで殴られても立ち上がる姿は、
拳にとって「なりたかった自分」そのものだった。
生前、松田優作がオールドクロウを愛飲していたと知り、
拳もまた、その酒を選ぶようになった。
グラスを傾けるたび、
ほんの一瞬だけ、
自分も強い男になれた気がしたからだ。
現実は変わらない。
だが、この一杯だけは、
彼に小さな強さを与えてくれる。
それで、十分だった。
理由など、そんなものでいい。
⸻
氷はすでに角を失い、
溶けかけた水面が鈍く揺れている。
妻がいる。
子供が二人いる。
仕事も、家もある。
世間的に見れば、何ひとつ欠けたもののない人生。
少なくとも――外から見れば、そう映る。
だが、人生は決して帳尻が合うようにはできていない。
「些細なすれ違い」
言葉にしなかった一言。
聞き流したため息。
仕事を理由にした不在。
それらは十五年の歳月の中で、
もはや手の届かない溝へと変わっていた。
拳は、静かにグラスを置いた。
――カラン。
氷の鳴る音が、やけに大きく店内に響く。
その音だけが、今ここに自分がいる証のようで、
胸の奥が、わずかに痛んだ。
(……今日も、ただ憂さを晴らすだけだ)
職場では、理不尽な叱責が日常だった。
上司の薄く張り付いた笑み。
怒声。
時折、理性を欠いた手の動き。
小さな町工場に、
コンプライアンスなど存在しない。
家庭を守るには、耐えるしかなかった。
「家庭があるんだから我慢しろ」
誰も口にはしない。
だが、確かにそこにある無言の圧力。
それらを流し込むように、
拳はひとり、酒を飲む。
哀愁――
それは、自覚した瞬間に人を弱くする感情だ。
握った拳を、確実に鈍らせる。
「……もう一杯、いい?」
短く告げると、
ママは黙ってボトルに手を伸ばした。
だが拳は、その動きを静かに制する。
「いや……今日はここまでにする。また来るよ」
「お勘定、お願い」
スナックゆうこのママ――笹峰 優子。
四十歳。独身。
着物姿のよく似合う、日本美人。
越後・新潟の出身で、雪国育ち特有の色白の肌。
どこか影を宿した眼差しが、男の心を無言で揺らす。
昨年の忘年会の帰り。
終電を逃しかけ、ふと立ち寄ったこの店で、
拳は彼女に出会った。
一瞬だった。
一瞬で、心を奪われてしまった。
理由など、考える暇もなかった。
理屈も、言い訳も、そこにはない。
ただ――
視線が合った、その刹那。
胸の奥で、何かが静かに崩れ落ちた。
それは恋と呼ぶには軽すぎて、
欲望と呼ぶには、あまりにも疲れすぎている。
「父」であり、
「夫」であり、
「社員」であり続けてきた男の中で、
押し殺されていた“個”が、
ほんの一瞬、息を吹き返した。
だからこそ、
そこにつまらない理由など、必要なかった。
ネオンに滲む光の中で、
彼女はただ、そこに立っていただけだ。
それだけで、十分だった。
それ以来、
拳は月に二度、この店の暖簾をくぐるようになった。
何かを求めているわけではない。
答えを探しているわけでもない。
ただ――
ここでは、
誰の夫でもなく、
誰の父でもなく、
誰かの部下でもない。
「竹山 拳」という、
ひとりの男でいられる気がした。
ネオンの光が、ガラス越しに滲む。
「あら、まだ終電まで一時間もあるわよ」
「ちょっと酔い過ぎた。夜風に当たって、
酔いを冷ましてから帰るよ」
優子は、何も言わず微笑んだ。
その沈黙が、
今の拳には、何よりもありがたかった。