鴉羽大地

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鴉羽大地

昨年から少しずつ書き進めている小説のテーマは「武道」です。私がこれまでに学び、経験してきた少林寺拳法や武道の哲学を物語に込めています。主人公が己を磨きながら困難を乗り越える姿を描く中で、「力」と「正義」のバランスや、人とのつながりの大切さといった普遍的なテーマに挑んでいます。

守護の拳

4話 静夜の影 白い息が、夜の闇に溶けていく。 あれほど荒れていた空気が、嘘のように静まり返っていた。 足元には、まだ動けないまま倒れている二つの影。 久津と草村は既に逃走し、路地には静寂だけが残っていた。 遠くからパトカーのサイレンが、かすかに反響している。 優子は胸の前で手を握りしめ、蓮の背中を見つめていた。 蓮は構えを解かず、しばらくの間、倒れた男たちの様子を確かめていたが、やがて静かな息を一つつき、彼らの側へと膝を着いた。 蓮は二人の状態を確認すると、迷いなく手を動かし始めた。 少林寺拳法の整法――打たれた部位を整え、呼吸を整えさせる施術。 掌が触れる度に、緊張した筋がゆっくりと緩んでいく。 しばらくして、男たちは呻き声をあげながら意識を取り戻した。 「……っ、いってぇ……」「くそ、何しやが――」 途端に悪態をつこうとする石山、蟻田の二人だったが、蓮は落ち着いた声で言った。 「動かないほうがいい。もう少しで警察と救急が来る。」 そう言うと、素早く二人の腕を取り、少林寺拳法の縛法(ばくほう)を用いて無理なく安全に拘束していく。 暴れようとした動きは、最小の力で封じられ、男たちは何もできずに地面に伏したまま呻いた。 蓮は立ち上がり、静かに両の掌を胸の前で合わせる。 「合掌。」 少林寺拳法の礼式である。 その礼は、敵に対してであっても敬意を失わない、静かな祈りのようだった。 振り返った蓮が優子に小さく頷く。 「……もう大丈夫だ。行こう。」 優子もそっと頷き、彼の隣に並んだ。 路地を抜けると、遠くにイルミネーションが瞬き、クリスマスソングが淡く流れていた。 街の喧騒もゆっくりと戻り始める。 遠くのショーウィンドウで、サンタクロースの人形が揺れ、濡れた舗道に反射する灯が二人の影を長く伸ばした。 優子はまだ心臓が早鐘を打っているのを感じていた。 だが、隣を歩く蓮の横顔は、不思議なほど落ち着いていた。 「……大丈夫?」 「俺は平気だよ。優子のほうこそ、怖くなかったか」 優子は小さく首を振った。 「怖かったけど……蓮がいたから、平気だった。」 その言葉に、蓮は口元をわずかに緩める。 それが優子には、どんな灯よりも温かい微笑みに見えた。 しばらく歩くと、街の喧騒はいつの間にか背後へと遠ざかっていた。 二人は細い路地へと足を踏み入れる。ビルの隙間を通り抜けた先、闇に沈んだ通りの奥に、ぽつりと深い琥珀色の光が浮かんでいた。 その光は、まるで冷えきった夜気の中にだけ灯された秘密の焔(ほのお)のようだった。                    つづく

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守護の拳

守護の拳

3話 拳の理由 ――風が止まる。 蓮の影が、ふっと揺らいだかと思うと、 次の瞬間にはもう、石山の懐に踏み込んでいた。 パシッ!ドン、ドッ――! 鈍い衝撃音が夜気を裂く。 蓮は少林寺拳法の目打ち(めうち)で相手の視界を奪い、 仰け反ったその瞬間、がら空きになった首元へ―― 右拳をまっすぐ貫くように逆突を叩き込んだ。 喉先の 急所【仏骨(ぶっこつ)】を正確に捉えた瞬間、 左手は振突(ふりづき)で石山の顎側部にある 急所【三日月(みかづき)】 を抉るように振り抜く。 石山が前のめりに崩れかかると、蓮はその勢いのまま連続三撃を放ち、脇腹の 急所【脇陰(きょういん)】を確実に突き抜いた。 ボキッ―― 肋骨が折れる鈍い音が響く。 さらに蓮はその反動を利用し、右手で首の後ろの 急所【脛中(けいちゅう)】に手刀を打ち放つ。 石山の口から息と唾が一気に吐き出され、勢いそのままに路地の壁へ叩きつけられた。 「……ぐ、ほっ……な、なんだ……こいつ……」 呻き声を上げながら、 石山は地面に膝をついたまま、目を見開いて蓮を見上げた。 蓮は、静かに構えを解いたまま低く告げる。 「――俺の女に手を上げた報いだ。」 その言葉を聞き終える前に、 石山の瞳はゆっくりと白眼をむき、力の抜けた身体が崩れ落ちた。 低く、抑えた声。 だがその響きには、確かな怒気があった。 草村と蟻田が顔を見合わせた。 「てめぇ……調子に乗んなよ!」 蟻田が怒鳴り、アスファルトを蹴って突進する。 その瞬間、蓮の瞳の奥に、かすかな炎が灯った。 ――空気が変わる。 蓮の眼が、氷のように冷たく光った。 蟻田の大振りの拳がうなりを上げて迫る。 蓮はわずかに身を捻り、少林寺拳法の 【流水受(りゅうすいうけ)】でその拳を受け流した。 空を切り裂く拳。 蟻田の勢いだけが虚空へと吸い込まれていく。 二撃目―― 再び蟻田の拳が蓮の顔面へ襲いかかる。 だが蓮は微動だにせず、少林寺拳法の 【外押受(そとおしうけ)】で受け止め、 瞬時に【目打ち(めうち)】で 眼の急所【眼球(がんきゅう)】を刺激。 さらに中段への段攻撃(段突き)で 腹部の急所【水月(すいげつ)】を貫く。 草村は、不気味な笑いを漏らすと、隣に立つ久津を睨みつけた。 「おい、ボサッとしてんじゃねぇ! お前、行け!」 突然の命令に、久津は怯えたような顔をして後ずさる。 「む、無理だよ……ヤバいって。す、すみません、すみません!」 そう口走るやいなや、いつものように踵を返して逃げ出した。 蟻田の視界が揺らぐ間に、蓮は手首を捕り、巻き込みながら体を捌いて投げ倒す。 【押受巻投(おしうけまきなげ)】 受け身を知らぬ蟻田は脳天から地面へ叩きつけられ、鈍い衝撃音が路地に響いた。 さらに蓮は 【羅漢拳 蜘蛛絡(くもがらみ)】で肩、肘、手首、指一連の関節を極め、相手の動きを完全に封じ、止まることなく、踵で後頭部を踏みつけ――圧倒的な制圧を見せた。 蓮の呼吸は乱れず、冷徹な眼差しが、路地に倒れ伏す敵を鋭く見据えていた。 残ったのは、草村ひとりだった。 蓮はまだ構えを解いていない。 少林寺拳法独特の 【一字構(いちじがまえ)】で、草村を真っ直ぐに見据える。 草村は口の端を歪め、ナイフをちらつかせながら言った。 「おい、こっちにはナイフがあるんだぜ。怖くねぇのかよ、へへへ……」 「怖くないな。死はいつだって日常のすぐ隣にある。――怖いのは、愛する者を守れなかった時だ。」 蓮は静かに言い放つと、ふっと構えを解き、 胸元をあえて無防備に晒した。 少林寺拳法の 【(八相構(はっそうがまえ)】 一見すると隙だらけだが、「構えあって構え無し」といわれる独特の構え。 だが、蓮のそれはさらに深く、 もはや“無構え”に近い、彼だけの独自の姿勢だった。 「そのナイフで突いてこいよ。どうした、それもハッタリか?」 「蓮、やめて! 挑発しないで!」 優子の声が震える。 「大丈夫だ、優子。俺が守る。」 草村の顔が怒りに歪む。 「こけにしやがって……やってやらぁ!」 草村はナイフを握り直し、雄叫びとともに蓮の胸元へと突き出した。 その刹那、蓮の右腕が閃いた。 少林寺拳法の 【内受(うちうけ)】――。 その受けで丘村の手首内側、 急所【寸脈(すんみゃく)】を正確に捉え、叩きつけるように弾いた。 草村の腕に、まるで電流が走ったような衝撃が走り、 握っていたナイフが手からこぼれ落ちた。 次の瞬間には、蓮の 【目打(めうち)】が丘村の顔面を正確に打ち抜く。 さらに間髪入れず、鋭い【金的蹴(きんてきけり)】が連続で放たれる。 身体が折れたその刹那―― 蓮は草村の手首を捉え、逆転身をし肘関節を極める。 そしてそのまま、流れるように 【天秤投(てんびんなげ)】 草村の身体は宙を描き、路地の壁へと激しく叩きつけられた。 草村の体が路地の壁に叩きつけられ、鈍い音が響いた。 ナイフがアスファルトを転がり、乾いた金属音を残して止まる。 「……う、ぐっ……」 草村は呻き声を漏らしたが、もう立ち上がる力は残っていなかった。 蓮は深く息を吐き、ゆっくりと構えを解いた。 夜の冷たい風が、汗ばんだ頬を撫でていく。 その眼差しは、戦いの熱を残しながらも静かで、何かを鎮めるように落ち着いていた。 優子が駆け寄る。 「蓮……怪我は……?」 「大丈夫だ。心配いらない。」 蓮は短く答えると、優子の肩に手を置き、そっと微笑んだ。 路地の奥では、何とか起き上がった草村の呻き声が、 しだいに遠ざかっていった。 誰も追わない。 もう、その必要はなかった。 優子の手が、蓮の指先を探すように触れる。 その手は微かに震えていたが、握り返した蓮の手は、静かに温かかった。 空には粉雪が舞い始め、街の灯がそれを柔らかく照らしていた。 冷たい夜の中に、二人の吐息だけが白く浮かんでいる。

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守護の拳

守護の拳

第2話 「裏通りの影」 広場を抜けて、二人は人通りの少ない路地へと足を踏み入れた。 さっきまでのネオンの光が、背後で遠のいていく。 古びたコンクリートの壁、錆びたフェンス、積み重なったゴミ袋。 吹き抜ける風が、遠くのベルの音をかすかに運んでくる。 「……本当に、こんなところにお店があるの?」 優子が不安そうに問いかける。 蓮は笑みを浮かべて答えた。 「大丈夫。もうすぐだ。ちょっと秘密基地みたいな場所なんだ。」 そう言って、彼は優子の手を軽く握り直す。 だが、その瞬間── 路地の奥で、暗がりの影が四つ、ゆらりと動いた。 酒瓶を片手にした男たちが、ニヤついた顔で二人の行く手をふさぐ。 酒と煙草、そして汗の残り香が、白い吐息とともに夜気に溶けてゆく。 四人の男が、ゆっくりと姿を現した。 「おいおい、こんな時間にデートかよ。いいねぇ、兄ちゃん。」 優子が小さく息をのむ。 蓮は彼女を背にかばいながら、一歩前へ出た。 夜風が一層冷たくなり、遠くのベルの音がかすかに響く。 BAR《オールドクロウ》まで、あとわずか── だがその道のりは、思ったよりも険しいものになりそうだった。 草村(くさむら)、蟻田(ありた)、久津(くず)、そして石山(いしやま) この辺りで悪名高いチンピラ四人組。 この界隈を牛耳る裏社会の組織【冥輪会】 その名を口にするだけで、夜の街の空気が少しざらつく。 草村たちは、その末端の雑用員にすぎない。 だが、冥輪会の名を盾にすれば、誰も逆らえないことをよく知り、それを利用していた。 彼らは夜ごと、人気(ひとけ)のない路地を徘徊した。 酔客のポケットをあさり、若いカップルを脅し、 弱い者の恐怖でわずかな金を得る。 暴力と怯えは、もはや彼らにとって呼吸と変わらない。 日常の延長にある、当たり前の行為だった。 社会の底に沈み切った彼らは、それでも自分たちはまだ這い上がれると信じていた。 その思いは、希望と呼ぶには儚すぎ、 支えと呼ぶには哀れすぎる――そんな小さな灯のようだった。 かつてはそれぞれに仕事も家庭もあった。 だが今は、過去の不満と劣等感を抱え、夜の片隅で群れるだけの男たちだ。 中心に立つのは草村和夫(くさむらかずお) かつての職場にてパワハラで部下を追い詰め、自らも職を失った。 敗北を認められず、不満を口にすることでしか自分を保てない。 力と支配でしか安心を得られない男。 その隣に立つのが、蟻田宣夫(ありた のぶお)。 強い者には媚びへつらい、弱い者には牙をむく。 嫉妬と劣等感を膨らませた大きな図体とは裏腹に、その心の器は驚くほど小さかった。 部下へのパワハラとセクハラが積み重なり、 ついに職を追われた日、 家族は一言の情けもかけずに彼の前から去っていった。 臆病さを隠すために平静を装い 格好つける事でしか自尊心を保てず、 側から見るとまるでピエロのように滑稽。 ふと浮かべるその笑みには、 必死さと、どうしようもなく滲む哀れさがあった。 まるで自分だけが足元の崖に気づかず、 虚勢だけで立ち続けているような男だ。 一歩引いた場所で彼らに従うのが久津宜武(くずよしたけ)。最年長だが、誰よりも小さく見える。 失敗を恐れて「すみません。すみません」と謝り続け、罵倒されても、その居場所からは離れられない。 彼にとっての“仲間”とは、孤独を忘れるための最後の居場所だった。 そして、石山毅(いしやまつよし) 頭も体も人並み以下で、残っているのは金と女への濃い欲望だけ。 凄みを出すために眉と頭髪を剃り落とし、 オラついた態度だけで自分を大きく見せようとしている。 他人の痛みに笑うその顔は、どこか壊れた人形のようだった。 人の不幸を前にして、ようやく自分が生きていると実感する―― そんな歪んだ心を抱えた男だ。 彼らは皆、かつて誰かに踏みにじられ、 そして今、自分より弱い者を踏みにじる側に立っている。 夜の路地裏。 彼らの笑い声は、遠くの街灯の下で冷たく反響する。 それは、哀れな男たちが“自分の価値”を確かめ合うための、 静かな共鳴の音だった。 「おいおい……夜のデートか? いいご身分だな」 草村がにやりと笑う。 「寒いだろ? 俺らが温めてやるよ」 不潔な目で、優子を見据える。 蟻田が続けて、くっくっと喉を鳴らす。 「兄ちゃん、彼女、可愛いいなぁ。譲ってくれりゃ、痛い思いせずに済むぜ?」 優子が一歩、後ずさった。 その様子を見て、石山が 「逃げるなよ、嬢ちゃん。嬢ちゃんは俺たちへのプレゼントだ。一緒に楽しもうぜ」 と舌舐めずりをする。 凍える夜気が、静かに張りつめていた。 薄雪を踏むたび、足元でかすかな音が散り、 吹き抜ける風が、どこかで空き瓶をカラリと転がした。 竹野内蓮が、優子を庇うように無言で前へ出た。 背筋は伸び、顔は無表情。 だが、その目には確かな光――闘う者の覚悟が宿っていた。 「……道を空けろ」 静かに放たれたその一言が、 冬の冷気よりも鋭く、4人の鼓膜を貫いた。 草村が鼻で笑う。 「なんだよ、兄ちゃん。女の前だからって格好つけてんじゃねぇぞ」 だが、蓮の目は微動だにしない。 その足元から、確かな殺気がにじみ出す。  静寂。 雪が一片、空から舞い落ちた。 その瞬間、空気が変わった。 草村が一歩、前に出た。 革ジャンの肩を鳴らしながら、煙草の灰を足元に落とす。 「おい兄ちゃん。聞こえなかったか? ここを通りたかったら、その可愛らしい彼女とあるったけの金置いていきな!」 蓮は黙ったまま、優子の肩に手を置き、後ろへ下がらせた。 その指先のわずかな力だけで、「下がっていろ」と伝わる。 「チッ、何だその目はよ」 蟻田が舌打ちした。 「こいつ、ナメてんな……」 4人の間に、重い沈黙が落ちる。 吹き抜ける風が、ゴミ袋をバサリと鳴らした。 草村がにやりと笑い、ポケットからナイフを取り出した。 錆びた刃先が、薄暗い街灯の光を受けてギラリと光る。 「ビビって声も出ねぇのか? なら、少し躾けてやるよ」 一歩、二歩―― 草村が詰め寄る。 その背後で恩田と西山も左右に散り、蓮を囲むように位置を取った。 優子が息をのむ。優子は後退りながら 「やめて……!」と叫ぼうとした瞬間、 石山がひょろりと腕を伸ばし、優子の手首を掴んだ。 「おっと、嬢ちゃんは逃がさねぇよ」 「離してッ!」 優子が抵抗し、手を振りほどこうとするが、 石山は細い腕で、ありったけの力でその腕をねじ上げた。 「キャーー」 「いい悲鳴だ……もっと聞かせてくれよ」 パァン――! 乾いた音が夜の路地に響いた。 「やめてッ!!」 優子の手のひらが、石山の頬を叩いていた。 石山の顔がゆっくりと横に振れ、頬に赤い手形が浮かんだ。 「……ああ、やってくれたな」 低い声。 その声に、蟻田と草村が一瞬だけ息を飲んだ。 石山の目が、血走る。 「嬢ちゃん、タダじゃ済まねぇぞ」   まさに、石山が優子に襲いかかる その瞬間だった。

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守護の拳

序章 白い息とネオンの夜

序章 1話 白い息とネオンの夜 十二月中旬。 街はクリスマス一色に染まり、アーケードには星型のライトと雪の結晶の飾りが揺れていた。 頭上のスピーカーから流れる軽快なジングルベルのメロディが、行き交う人々の足取りを弾ませる。 イルミネーションの反射が、濡れた舗道を銀色に輝かせていた。 竹野内蓮は、手にした紙袋を少し持ち直しながら、隣を歩く笹峰優子の横顔を見た。 白い息が二人の間で重なり合い、冬の夜気に溶けていく。 「寒くない?」 「うん、大丈夫。手袋、してるし」 優子は笑いながら、両手を見せた。 真っ赤な手袋の上に、雪がひとひら落ちては、すぐに溶けた。 街灯の光がその髪に反射し、やわらかく輝いて見える。 「それ、似合ってるな。俺が選んだやつだって言ったら、センス悪いって笑われるかと思った」 「ふふ、まさか。蓮くんが選んでくれたんでしょ? それだけで特別」 「特別、か……」 蓮は照れくさそうに頭をかいた。 アーケードを抜けると、商店街のショーウィンドウにはサンタやトナカイの人形が並び、赤と金のリボンが彩りを添えていた。 二人は、ゆっくりとその前を歩きながら立ち止まり、ガラス越しにディスプレイを覗き込む。 「見て、これ可愛い」 優子が指差したのは、マフラーを巻いたクマのぬいぐるみだった。 「プレゼント交換、これでも良かったかもね」 「いや、それじゃ子どもすぎるだろ」 「えー、可愛いものが好きな男の人もいるって」 「そうか? 俺は……」 「なに?」 「優子のほうが、可愛いと思うけどな」 その言葉に、優子はふっと頬を染めた。 「そういうこと、さらっと言うのやめてよ」 「本気なんだけどな」 「もう……」 笑い合う二人の姿を、すれ違う人々がちらりと振り返る。 どこにでもある冬の光景。 けれど、蓮にとっては何よりも大切な時間だった。 二人はその後、カフェに立ち寄った。 窓際の席。ガラス越しに見える街は、粉雪と光でぼやけている。 マグカップから立ちのぼるコーヒーの香りが、冷えた身体にやさしく染み込んだ。 「今年も、あっという間だったね」 「本当だな。気づいたら、もう年末」 「蓮くん、年明けは実家帰るの?」 「ああ。母さんが“顔くらい見せろ”ってうるさいんだ」 「ふふ、いいお母さん」 優子はカップを両手で包み込み、静かに微笑んだ。 その指先の震えを見て、蓮は自分の手をそっと重ねる。 「冷たいだろ」 「ううん。……あったかい」 二人の間を、言葉では言い表せない穏やかな空気が流れた。 外では、誰かの笑い声とベルの音。 どこか遠くで、雪かきのスコップがアスファルトをこする音が聞こえた。 カフェを出たあと、蓮は小さなブティックに立ち寄った。 ガラス越しに見えた白いコートが、どうしても優子に似合う気がしたのだ。 「ちょっと寄っていい?」 「うん?」 店内は温かく、アロマの香りが漂っていた。 「これ、どう?」と蓮が手に取ると、優子は目を丸くした。 「……これ、私に?」 「試しに着てみてよ」 試着室のカーテンが開く。 白いコートを身にまとった優子が、照れくさそうに立っていた。 「どう……?」 蓮はしばらく言葉を失った。 「……やっぱ、似合う」 「ほんとに?」 「ああ。街のイルミネーションより、ずっと綺麗だ」 優子は小さく笑い、頬を染めた。 「もう……そういうこと言うと、買わなきゃいけなくなるじゃない」 「じゃあ、俺がプレゼントする」 「ダメだよ、高いでしょ?」 「いいんだ。……俺が今、一番贈りたい人だから」 しばし見つめ合う二人。 優子の瞳が揺れ、けれどすぐに小さくうなずいた。 「じゃあ……ありがとう。大切にするね」 外に出ると、雪が少し強くなっていた。 風に舞う白い粒が、街灯の光を受けて光の帯を描く。 二人は並んで歩き、自然と手をつないだ。 広場に出ると、そこには大きなクリスマスツリーが立っていた。 ツリーの頂点で瞬く一つの星が、まるで夜空を貫くように輝いている。 「ねぇ、あれ見て」 優子が指差した。 「綺麗……。なんだか、願い事をしたくなるね」 「じゃあ、してみようか」 「蓮くんは?」 「俺は……優子が、ずっと笑っていられますように」 優子は少し驚いたように蓮を見つめ、それから小さく笑った。 「それって、自分のことより私の幸せをお願いしたの?」 「そうだよ。その方が、俺も幸せだから」 しばらくの沈黙。 雪がふわりと二人の肩に舞い落ちた。 「……ねぇ、蓮くん」 「ん?」 「こうして普通に笑っていられる時間、ずっと続けばいいね」 「続くさ。俺たちはちゃんと前を向いてる」 蓮は優子の手をそっと包み込んだ。 冷たい指先に触れながら、そのぬくもりを確かめるように指を絡める。 それでも、優子の笑顔はどんな灯よりも温かかった。 驚いたように見上げた彼女は、すぐにふっと微笑む。 その穏やかな笑みは、街のイルミネーションよりも静かに心を照らした。 「……冷たいな」 「寒いもん」 「じゃあ、少し寄り道しようか」 蓮が小さく息を吐き、前を向く。 「俺の知り合いの店があるんだ。きっと気に入ると思う」 「どんなお店?」 「“オールドクロウ”っていうBAR。  静かで落ち着いた店なんだ。  マスターの話も面白いし……今夜は、温かいものでも飲もう」 優子は少しだけ考え、それから小さく頷いた。 その仕草に、夜の風がやさしく触れる。 二人の手は離れぬまま、街の灯の中を並んで歩き出した。 アーケードを抜ける角を曲がると、ざらついたアスファルトの匂いと、 どこか遠くで響く笑い声が混じり合っていた。 繁華街の光が遠のくほどに、通りの空気は冷たく、静かになっていく。 その中に、ふと背筋をかすめるような視線を、蓮は一瞬だけ感じた。 「……どうかした?」 「いや、なんでもない」 振り返った時には、誰の姿もなかった。 ただ、夜の底が、ほんの少しだけざわめいた。

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序章 白い息とネオンの夜

登場人物紹介(序章)

■竹野内 蓮(たけのうち れん) 三十歳前後。 物静かで落ち着いた雰囲気の青年。 かつては格闘技の世界に身を置いていたが、今は街の片隅で静かに暮らしている。 少林寺拳法をベースにした独自の技を持ち、 いざという時には冷静かつ的確に動ける男。 普段は温厚で冗談も言うが、その奥には過去に背負った“痛み”を隠している。 優子に対しては誠実で思いやりが深く、彼女の笑顔が何よりの支え。 ■笹峰 優子(ささみね ゆうこ) 二十代半ば。 明るく素直で、少し天然な一面を持つ女性。 普段は都内観光のバスガイドとして働き、休日に蓮と会う時間を楽しみにしている。 人の心に寄り添う優しさがあり、蓮にとっては“過去の影”を和らげてくれる存在。 笑顔の裏には、どこか寂しげな気配も漂い、 それが物語の鍵を握る予感を漂わせている。 ■鴉羽 大地(からすば だいち) (序章ではまだ登場しないが、蓮が向かう先――BAR「オールドクロウ」のマスター) 元・自衛隊特殊部隊出身の僧侶兼バーテンダー。 蓮の過去を知る数少ない人物であり、彼に“守る拳”の意味を教えた師でもある。 静かな笑みの奥に、鋭い洞察と確かな実力を秘める。 やがて蓮の戦いに深く関わる存在となる。

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登場人物紹介(序章)