池田 青葉(いけだ あおは)

58 件の小説
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池田 青葉(いけだ あおは)

世界の心の居場所

愛してはいけない

愛は邪魔なものだと知った 彼女と永く一緒にいるのなら 僕は彼女を愛するべきではなかった 先に愛してしまった 出会って最初の呼吸をするときには もう手遅れなほどに夢中になっていた 彼女はまだ 僕の存在にさえ気づいていなかったというのに アピールする度胸なんてなかったけれど 与えられたチャンスは逃さぬように 少しずつ彼女を手繰り寄せていった 少し待たされた後 彼女は僕の掌に落ちてきた 夢見心地で 歩くのもままならぬような日々だった 「愛してる」と言った 言いたくて言いたくて仕方なくて 心から溢れようとする声を何度も抑えて やっと言えた言葉だった 愛を伝える幸せに包まれた しかし彼女が放つ空気の中で 僕の言葉は恐ろしいほどに浮いていた 彼女は「ありがとう」と浅く微笑むだけ 手に入れたと思っていた僕は 失う恐怖にまとわりつかれた 連絡が返ってこないたびに 足がすくみ生きた心地がしなくなった 次会う予定が立っていても 彼女が会いたくなくなるような気がした 会ってわかれるたびに もう二度と会えなくなるのではないかという 悪魔に取り憑かれた 勝手に僕だけが不安になって 大袈裟だと彼女が笑う 強がってやり過ごそうとしていたのに 言葉にできない弱さは彼女に見透かされていた 「いなくならないから」と言って一週間 彼女は僕に別れを告げた 心臓を握り潰されたのか肺に穴が空いたのか 正面から別れを見つめようとすると 息が吸えなかった こんなにも愛していたのは僕だけだった 彼女は僕がいなくなることなんて怖くなくて すべて僕からの一方的な想いだった 愛すると愛されなくなる それなら愛なんて捨ててしまった方がいい それでも、 もう人を愛さないと決めたって 春が来れば桜が咲くより自然に 新たな愛は芽生えた 二度と「愛してる」なんて言うもんか 心に蓋をして想いを見つめないようにした 手に入れたって 僕の想いが相手を消してしまう 失う恐怖と隣り合わせにいても 彼女の愛おしさは心の蓋を何度も揺さぶる 叫んでいる心を自由にするのが怖い 言いたくて言いたくてどうしようもないのに たった一言を彼女に伝えられない 一緒にいる時間のすべてを その言葉で満たせるというのに 強く強く抑え込んでも 不安は握った指と指の隙間から滲み出るように 彼女の前に現れてしまった 「いなくならないから」 死神が僕から彼女を連れ去る合図 その3日後、僕は別れを告げられた 次の彼女も、その次の彼女も、次の次の彼女も 「いなくならないから」と他人事のように言った 付き合っても付き合っている気がしなかった 僕の不安を拭うことが そのまま2人の関係になっていった 気づけば彼女はいなくなっている 「いなくならないから」という 言葉の意味はどこへ逃げていくのか 何が奪っていくのか 期待して縋って失ってを繰り返す 僕の不安と恐怖はいつも形を帯びて現れ 「いなくならないから」を重ねた そして、僕は君に出会ったんだ 何をしていても淡々と話すだけ 無表情で淡白な目をしていた その目が何を見ているのか 何を考えているのか 初めは掴みどころのない君だったけれど 夜の別れ際に 君が僕の手をギュッと握ったとき 心の奥に深い傷を隠していたんだと知った 「愛してる」 自然に出てきた言葉だった 君になら僕の声が届く気がした 一緒に過ごした最初の夜 君は僕の胸の中で泣きながら言ったんだ 「いなくならないで」

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愛してはいけない

モテる男のバレンタイン

モテる男は大変だ 今年もバレンタインの季節がやってきて 俺はチョコを大量に作らなければならない 男なのに作るのかって言われても そうしなければならないのだ 作らなくてもいいなら 俺だって静かに過ごしてバレンタインを終えたい しかし俺はモテる男なのだから仕方ない モテる男が必勝の世の中だ 店で買った方が綺麗ではあるが 手作りの方が気持ちがこもっているように見える 大切なのは奥に潜む真実ではなく どのように見えるかということなのだ 人間は目に見えるものがすべてだと思い込む 手作りの方が本気であるように見える スーパーで買い出しをした 卵、砂糖、牛乳、バター、薄力粉 アルミカップやミルクチョコレート 生クリーム、アラザン、ポイフル カラーチョコスプレー、ココアパウダー ラッピング用の袋やカラー紐 レターセットやカラーペン、シール 何種類ものチョコレートを作れるように 材料も道具も買い込んできた 知り合いに見つからないように ニット帽、サングラス、マクスを装着して チョコはバレンタインの3日前から 両親が眠った夜中をうまく使って 作り上げていく 袋に入れたチョコを温めたり冷やしたり チョコレートパウダーをまぶしたり 卵黄と砂糖を混ぜたり 牛乳とクリームを混ぜたり 冷蔵庫の中は食材で溢れている我が家だから 奥の方に隠してしまえば見つかることもない 毎年かなりの量のチョコレート、 それもかなりの種類を作っているから 知識や手際も女子並み、いや女子以上なはずだ キッチンが甘い匂いで満たされるから 窓をあけて朝まで換気をしておけば完璧だろう 足音を立てぬように部屋へ上がったら レターセットとペンを広げて 熱い想いを綴っていく 「だいすき」や「付き合ってください」 という言葉を並べておけばいい 可愛らしい封筒に入れてシールで閉じる ベッドに入っても興奮で眠れなかった 大好きな君はどんな顔をするだろうか 前日の放課後 作ったチョコを靴箱と机の中に入れる 授業が終わって一度帰宅したら チョコを梱包してテープで手紙とセットにする 大きめのトートバッグを用意したら すべて詰め込んで学校へ向かう 学校は部活動の熱気が遠くでするが 靴箱や教室に皆の意識はない 昇降口を通り目当ての靴箱へ 迷うことなく真っ直ぐに向かう 校舎の3階に上がり教室へ入り込み 目当ての机へ一直線に進む 靴箱と机の中に仕込みが完了したら 人に見られぬよう忍び足で学校を後にする バレンタインの前夜は クリスマスイヴのような気分に包まれる 翌朝、そ知らぬ顔で登校する 髪をセットしてリップクリームも塗り 香水を吹きかけて 表情の練習なんかもしておく 君の反応を想像すると心拍数が上がった 学校の正門をくぐると友達に肩を叩かれる 「今年もお前はすごいんだろうな」 「さあ」と興味なさげに返す チラチラと辺りを見回し君を探す 昇降口を共に通り俺の靴箱を開けると 中から大量のチョコレートが溢れ出てきた 靴箱の中に収まらず床に散らばる ラッピング用の袋に入れられたものや 赤い箱で飾られたもの どれも熱い想いの手紙つきである 周囲の同級生たちが歓声をあげて 先輩や後輩たちも感嘆の声を漏らしている 俺は“まったく困っちゃうよ”と 呆れた顔をしてみせるが君は見当たらない 上履きを取り出して その場を後にする 「おい、拾わなくていいのかよ」 友達が必死についてくるが 俺は軽く手で制するだけだ 教室も何やら騒ぎの予感が廊下までしていた 俺は今日がバレンタインであることを 知らぬような眠そうな顔を作って 教室に入っていく モテる男はバレンタインなど 意識しているように見せないのだ クラスの女子たちが集まってきて 「今年もすごいね」と騒ぎ立てるが君はいない 「何が?」とため息を吐いて 怠くて面倒くさそうな雰囲気を醸し出しながら チョコが積まれた席につく 赤や黄、ピンクなどカラフルな色が 俺の席を埋めつくして 愛に溢れた言葉が散乱している その一つ一つを疲れきったような目で見る そして毎年、震えるほどの快感に浸りながら 必死に笑いをこらえるのだ しばらくすると、君が教室に入ってきた 驚いて憧憬の念を抱き 少し嫉妬の表情でも浮かべると思ったが チラッと一瞬俺の方を見ただけだった 全意識が君と友達の話し声に集中する 「私、昔からモテる人好きじゃないんだよね」

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モテる男のバレンタイン

完璧主義の末路

理想的な結果を思い描くくせに 完璧主義を貫きとおして そこへの一歩目を踏み出さずにいる 自分にとっての完璧な小説を書こうと 鉛筆を持ち原稿用紙に向かう すると一文字も書けなくなる 何を書いても間違った気がして どんな言葉も自分の理想と合致しない 書くことから逃げるように飲み歩き 友と遊び女と一晩を共にする 思い返せば 自分が結果を求めたものは その日から何もできなくなっていった 必ずこだわりを持つようにして それを満たさぬものは 自分ではないと否定してきた こだわりを満たせないことが恐ろしくなり 何もしないようになっていく 自分という壁を破る挑戦をやめて 何もない男になったのが私だ 命を懸けるつもりでいた小説も 書くことをやめた ただ呆然と魂が抜け落ちたように 日々を過ごしていった 恐ろしいこだわりは 日常の私さえも蝕んでいった 完璧な歩き方がある 必ず右足を先に出す 踵から地につけ つま先は二十度くらいの角度に あらなければならない 踵にまずまずの重みを感じて 音を立てずにつま先もつける これが完璧な歩き方だ 歩くのに音を立ててはならない 人に迷惑をかけぬよう静かに できなかったときは何度でもやり直す 左足から歩き始めてしまったとき 踵がついた瞬間のつま先の角度が 二十度ではなかったとき 音を立ててしまったとき 私という完璧を求める意識は 常に監視をしていて引っかかると ひどく面倒くさい 完璧な歩き方ではないと判断すると 自分を納得させられるまで 同じ動作を繰り返し何度も何度も 狂ったように行うのだ 傍から見れば バグを起こしたロボットのようだろう 完璧主義を恐れた私は ほとんど歩かずに家の中で過ごすようになった 友や女とも会いたかったが会わなくなった 自分を納得させる歩きができず トイレへ行くのでさえ 一時間かかることもあった 私はさらに自分を縛りつけていった 食べ方飲み方 話し方 目の開け方 目の閉じ方 起き上がり方 立ち上がり方 呼吸の仕方 完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧完璧 鏡で自分の姿を見たときは戦慄した 目の開け閉じをするだけなのに 眉間に皺を寄せたり黒目を動かしまくったり または白目を剥いてみたり 化け物かと思った 何をするにも完璧を求める監視と 確実に蝕まれていく自分の姿が恐ろしくなり 私はその場で目を瞑ったまま 何もできなくなった 体が生きているということ以外 死者と変わらなかった 歩くのが怖い 食べるのが怖い 飲むのが怖い 起き上がるのが怖い 目を開けるのが怖い 呼吸をするのが怖い 飲み食いができなくなり 呼吸もまともにしなくなった私は 三日も経たないうちに 静かに息絶えた 完璧主義により自分で自分を殺した 霊となっても成仏せずに 同じところにいつづけた 一時間以上かけてなんとか目を開け 自分の死体を眺めた 蛆が湧き蝿が集っても 誰にも発見されなかった 死から一ヶ月が経ったころ 不審に思った大家に見つかった 死体が処理され清掃が行われて 住んでいた痕跡がすべてなくなっても 私は部屋の同じ場所に霊としていつづけた 住人は何人も入れかわった ソファやベッドやテレビが置かれ 私はあらゆる人間の生活の下敷きになった 時は無情にも私を置き去りにしていく 十年、二十年 時代が変わっても 霊である私は同じところにいつづける 動きたくても 完璧な動作を求める私の意識は それを許さない アパートが壊され新たに高層ビルが建てられた 私はその壁の中に埋まる状態になった 世界の音は遠く遠く離れ 目を開けようにも闇が広がるのみ 完璧主義の私が陥ったのは 永遠の姿をした孤独だった

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完璧主義の末路

苦しみを笑え

苦しみを笑うのが好きだ 泣いて悶えて叫んで暴れる なんと滑稽な姿だろう 小学校のリレー大会で転んだ奴がいた そいつは走りで負けたことがなかった だから転んだ バトンが転がり 膝小僧は血と砂で傷ついていた 一生懸命すぎるあまり派手に転んだ クラスは結局、最下位で 転んだそいつは大泣きしていた そいつのせいで負けたようなものだ だから俺はそいつのことを笑った 愛の告白をしている奴がいた 好きで好きで怖くて なかなか言い出せなかった やがて勇気を振り絞って そいつは告白をした 「あの」と何度も言い 相手に呆れられていた 「あっ」だか「ふっ」だか 変な音も発していた 手も声も震えていた 相手のこたえは 「ダサすぎて無理」 告白に玉砕したそいつは 帰りの電車で声を殺して泣いた 周囲の人に気づかれていた だから俺はそいつのことを笑った 大学受験で失敗した奴がいた 周りの友だちはみんな合格したのに 一人だけ不合格で 周りの奴らに気を遣わせていた 一人でとぼとぼ帰りながら 拳を震わせて涙を流していた 一人だけ受からなかったのが 余計に悔しかったのだろう だから俺はそいつのことを笑った 結婚したいと思った彼女に 浮気された奴がいた そいつにとって彼女は人生のすべてだった 浮気を知り、さらにフラれたとき 呼吸困難になった 生きる意味を失い 仕事にも行かなくなった 酒に明け暮れ 警察沙汰になることもあった 人が怖くなり カーテンも開けずに引きこもるようになった ただ、愛しすぎた 愛しすぎて人間の最底辺になった だから俺はそいつを笑いとばしてやった 一生懸命やっている奴を笑うのではなく 一生懸命やってきたから笑える 俺も大人になったよな 過去の自分を笑えるようになったんだ

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苦しみを笑え

嫌いな人には玉ねぎを

誰にでも嫌いな人はいる 会うことを考えるだけで 胃がチリチリと痛みだして 体調にも悪影響が及ぶ人 自分にとっての完璧な悪人や 悪気はないだろうけれど嫌いな人 理不尽さ、狡さ、正しさ 上から目線、輝き、嫉妬、羨望 怒り、強奪、暴力、価値観 人を嫌う理由なんて そこら辺に転がっている できるだけ人を嫌いになりたくないと 思ってはいるけれど 自分が自分である以上 けっして避けられない思いだ それでも嫌いな人に いい顔をしなければならない瞬間もある 嘘をついているようで苦しいけれど その顔を自動的に作れる方法 つまり嫌いな人を少し許せる方法を 僕は知っている 玉ねぎを渡すのだ どうか最後まで読んでほしい 一玉でいいから 玉ねぎを渡すのだ 嫌いな人はどんな顔をするだろうか 玉ねぎという丸々とした野菜 その丸さが嫌いな人の手の中におさまる しかも突然渡されたその丸さに 困惑させられている なんと、可愛らしいじゃないか 嫌いな人を少し許そうとして わざわざ玉ねぎを買いにいって その手の中にしっかり渡したあなたも 可愛いじゃないか 一体何してるんだよ その先も考えてみてほしい 持ち帰ったその玉ねぎを調理するために 包丁で切ることになる するとどうなるか 愛すべき野菜と対峙して 涙するのである 玉ねぎを切って涙する 人間なら避けられぬ運命だ その顔を想像してみてほしい 包丁を片手に 目がしみてきて 目を強くつむったり手で擦ったりしながら 涙を目のまわりに滲ませている どれだけ腹が立つ人でも 自分の手には負えない人でも 玉ねぎの前では無力なのだ なんと、愛おしいじゃないか クラスの嫌われ者も 炎上した有名人も 票がほしい政治家も みんな玉ねぎを切ればいいと思う そして泣けばいいのだ 弱くて情けない顔を晒せばいい 世間は何とも思わないとしても 僕はその滑稽さを愛す

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嫌いな人には玉ねぎを

人を傷つけていい

誰かを傷つけること それは誰かの敵役になること 自分も苦しい思いをして 自分のことが嫌いになる 人を傷つけたのが自分だと思いたくない でも傷つけないように 沈黙や曖昧を貫くのは 優しさではなく弱さ 傷つけないようにと言いながら 心の大部分は 自分が敵になるのを恐れている と言っても 誰も傷つけないように遠慮がちになると 空虚な人生になると思う だから人を傷つけていい 傷つけるなら早く 傷つけることを肯定するわけではない 傷つけることが悪いのではなく 長引かせることが悪いのだと思う 優しさの顔をした弱さで 沈黙と曖昧をつかって引き延ばしても ナイフは大きくなるだけだ いつか刺すときは必ずやってきて 相手の心に大きすぎる傷を刻むことになる 人を傷つけずには生きられない 傷つけられずにも生きられない だから相手が心をたくさん使ってしまう前に ナイフが大きくなってしまう前に 早く傷つける 早く敵役になる それが優しさではないか 傷つけたくないと思わずにいたほうが 長い目で見たときに 傷つけずに済むかもしれない 色んな人を傷つけて傷つけられて 色んな人を嫌って嫌われて 心に正直でいようとしても それが難しくて でも一生懸命で切実で そんなふうに生きていきたい

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人を傷つけていい

もっと諦めていい

諦める。 妙に嫌な響きを感じる 自分の価値が奪われるような 未来を塞がれるような圧迫感 諦めなければ叶い 諦めないことは良しとされる 意志を持ち戦い、抗いつづけることが 重要で大きな意味を持つことには 変わりないと思う しかし諦めないのは 立ち向かう強さだとしても 諦められないというのは 捨てる強さを持たないことだとも思う 諦められるというのは 受け入れる強さを持つということだ 自分の価値を知らないから 付属品を集めて自分を作ろうとする 勝たなければならない 負けてはならない そんなことはない 本来は何もない 言わばすべて諦めた状態で 生まれてくる 諦められないのは 手を離す勇気がないからだ もっと諦めてもいいと思う 世界にも人にも自分にも 諦めた数だけ軽くなるのではないか それは胸をかき乱す現実を 動物的で傷つけあう人間を そして何より弱い自分さえも 受け入れる強さである それこそが優しさではないのか

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もっと諦めていい

ナイフを持っていた

自分は人の世に 溶け込むことができない みんなが僕を恐れ軽蔑する 表情の作り方が分からないからだ 感情がないわけではない ただ表に出ないというだけだ 真顔でいるだけなのに すべてを否定してくる どうして笑えるのだろう 挨拶を交わしただけで 空っぽの会話のなかで どうしてそんなに うまく笑えるのだろう 笑顔なんて偽物だろう 作りたくもない笑顔を作っている方が 怖くないか 僕は今のままでいたいと思っていても 周りは許してくれない 無視され笑われ 頭を掴まれ 笑えよと罵りながら ゴミ箱に顔を突っ込まれる日々だった 気をつかって話しかけてくれる人にも 冷たく返してしまう 冷たくする必要があっただろうか 普通の対応で良かったのだ でも普通が分からなくなっている そんな自分が嫌になって 僕は整形した 左右の口角を吊り上げて いつも笑顔でいられるようにした 常に歯を見せて笑う表情を 顔面にはりつけておける これで笑えと罵られることも 気づかいを無下にすることも なくなると思った 街で悲鳴が上がった 悲鳴の隣で悲鳴が上がった その隣でまた悲鳴が上がった 悲鳴は連鎖していく 露骨に避けられた スマホを向けられた 子どもにお化けと指さされた 太陽があるから死にたくなる 死にたいときに 背中を押されたって 余計に死にたくなるだけだ 家で一人で震えて泣いた 目の奥、体の奥から 熱い涙が溢れ出てきた これほどの激情があったことに驚く 涙は頬を伝い落ちていく 透明だった涙が枯れたのか いつしか赤い涙が流れた 血なのか また違う何かなのか分からない 赤い涙はさらに目を崩し 偽物の笑顔で満ちたこの顔を 濡らしていった その顔のまま僕は外へ出た すれ違う人は悲鳴を上げ 腰を抜かしていった 何かを破壊せずにはいられなかった ナイフを持っていた

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ナイフを持っていた

完全犯罪の崩し方

完全犯罪を成し遂げた 一週間前に出した殺害予告には 「雷を落として殺す」と書いた パーティー参加者たちは鼻で笑っていた 参加者の一人 元ボクシング世界ヘビー級王者の男なんかは 口を開けば殺害予告のことを馬鹿にしていた だから殺してやったんだ 日が落ちた海辺で行われたパーティー 参加者には名だたる著名人たちがいた 一世を風靡した企業のやり手社長や 世界的な人気を誇るが癖がある芸術家 ノーベル賞を受賞した名誉教授や 真っ赤なドレスのミスコングランプリの美女 今をときめく人気俳優 みんなで日本を背負っていきましょう的な 胡散臭い名目で行われたパーティーだ 長いスピーチが終わり華やかな声で幕を開けた みんなそれぞれにグラスをもって 笑顔を貼り付けながら落ち着いて話していた 会場の隅で一人だけ つまらなそうにしている男がいたが ほとんどの連中は今を楽しんでいた 二十時の鐘がその合図だった 雷が夜空を貫いてボクサーに落ちると 笑い声は怒声や悲鳴に変わった 大声で笑っていたボクサーは 一瞬で焼け焦げて真っ黒になり 静かになってしまった やがて悲鳴は唖然に変わった 散々馬鹿にされた殺害予告のとおりに 殺人が起こったのだ 偶然にも現場には名探偵が居合わせた 一人つまらなそうにしていた男だった 彼が遺体に駆け寄ると歓声があがった だが黄色い声には興味なさそうに 遺体を観察していた 凶器は大自然のナイフ、雷 トリックは不明、動機も不明、証拠もなし それぞれの業界で 名を馳せた人たちの集まりだから 名探偵以外にも頭が切れそうな人が多くいた その何人かが名探偵を囲って話し込んだり 遺体の周りを歩いたりして 何とか事件を解決しようとしていた しかしいつになっても 手がかりらしきものは何一つ出てこない 名探偵は悔しそうに頭を搔く 夜は流れ、朝が顔を見せようとしていた どんな天才であっても このトリックを解けるわけがないと 自負していたが 名探偵が現れたときは流石に少し焦った だがこの事件だけは彼にも解けないようだ 東の空が明るくなってきたころ 名探偵はボサボサになった髪をかきあげ フッと吐息のような笑みをみせたあとで 「降参だ」と呟いた 大きな衝撃が会場を揺らしたが 事件解決を共にしようとしていた面々は 納得したように頷いていた 俺は勝ったのだ 日本を背負う上位の人間たちに勝ったのだ 日本中の人間に見せつけてやりたい 一世を風靡した企業のやり手社長は 「これほどのことを成し遂げるとは 天才に違いない」と言って やれやれという顔で笑っていた 彼の賞賛に全身が震えた 全国の社会人たちよ、見たか俺の偉業を 世界的な人気を誇るが癖がありそうな芸術家は 「これは世界的に見ても優れた芸術だ」と 何やら鉛筆でメモをしていた 今にも叫びそうだった 全国の風流人たちよ、見たか俺の偉業を ノーベル賞を受賞した名誉教授は 「科学で証明できないことをやってのけるとは 何者なんだ」と 顎に手を当てて考え込んでいた 興奮のあまり死んでしまうかと思った 全国の学者たちよ、見たか俺の偉業を 真っ赤なドレスのミスコングランプリの美女は 「素敵な人。一晩だけでいいから抱かれたいわ」 と首元に香水を吹きかけた 気持ちよすぎて射精するかと思った 全国の男たちよ、見たか俺の偉業を 今をときめく人気俳優は 「僕以上の人気者になるかもな」 と敗北に酔ったような気取った言い方をした 熱が高まりすぎて蒸発しそうになった 彼のファンたちよ、見たか俺の偉業を 各界の帝王たちに俺は勝利したのだ これをみんなに示したくて いても立ってもいられなくなった 今すぐにでも 俺がやりましたと大声で告白したかった 「犯人誰だよ」とみんなが言った 名乗り出るのは美しくないと分かっていた しかし我慢できるわけがなかった 俺は人生でいちばん高く 勲章でも掲げる気持ちで 手を挙げてやった

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完全犯罪の崩し方

ストレスで食べすぎる

ストレスが溜まると食に出るのは なぜだろうか 今日も食べすぎてしまった 最低限の夕飯しか買わないと誓って コンビニに入ったのに 弁当に加えおにぎりや惣菜 新発売のデザート二つや 瓶と缶のお酒一つずつ レジ横の揚げ物まで買っている 一体なにをしているのだと責めたてて 自分のことを少し嫌いになるのは 食べ物で破裂しそうなお腹になってからだ しかし悪いのはすべてあいつらだ 同期だからといって やたらライバル心剥き出しで 先輩の前でマウントとってくるあいつや ローズのキツい香りをまとい 優しいときは異常に優しいのに 機嫌によって露骨に態度を変えるお局 人の粗探しが趣味で 何度もやり直しにしてくる上司 ストレスの根源はすべて人間関係とは よく言ったものだ 自分にとって悪と感じる人間だけでなく そもそも人見知りだし会話も得意ではないから 人といるだけで気を遣いストレスになる ストレスを人に感じさせられたとき それらをすべて食べて 胃の中で壊してしまおうというわけだ それからもストレスに揉まれたり いつストレスが襲いかかってくるのかと 身構えていたのに何もなかったりと それ自体がストレスだと思いながら 日々が過ぎていった 徐々に蝕まれていった心は ある金曜の夜、完全に壊れた その日は朝からお局の機嫌が良くなかった 仕事上の話をしても冷たく 「勝手にしていいよ」 「いいんじゃない」 と目も合わさずに鼻で笑うような適当な返し キツいローズの香りが後ろを通るだけで 胃がキュッと締めつけられた 勤務時間中でさえ ストレスの塊が腹の中にできあがっというのに 夜の会社の飲み会はひどかった お酒が回ってくると 茹でタコみたいな真っ赤な顔で 口を開けば私の愚痴 肘があたってグラスを倒し 冷たいお酒が私の膝にこぼれたというのに 「ごめん」の一言もなく何もなかったように うるさい声で他の人たちの会話に 顔を突っ込んでいる その瞬間、我慢の緒は切れた お局が私の愚痴を言うたび 「すいません」と謝っていたが すべて謝らずに笑顔で聞き流していった その対応が気に食わなかったのか お局はさらにヒートアップしそうになったが アルコールの力にやられウトウトし始めた 情けない 帰りはお局を私が送っていくことになった 情けない タクシーの中でも眠っており タクシー代も私が払った 情けない この日のストレスはすべて 食べて発散するつもりだった ストレスに染め上げられた一日だ 過食どころじゃ解消されない もう何を食べるかは決まっていた ストレス最大の日のため 楽しみにとっておいたのだ 靴下だけ脱いで 食器棚からフォークとナイフを取り出す スーツを着たままの格好で テーブルの前に座る これでストレスがひとつなくなるのだ 「いただきます」と手を合わせる私の部屋には キツいローズの香りが充満している

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ストレスで食べすぎる