君がいなくなった夏を、僕はまだ知らない

人は、人生で何度くらい「あのときに戻りたい」と思うのだろう。テストで赤点を取ったとき。好きな人に振られたとき。大切な人と喧嘩したとき。それとも、もう二度と会えない人ができたとき。僕は、たぶん人より少しだけ多い。 高校三年生の夏。蝉の声がうるさくて、校舎の廊下にはワックスと汗の匂いが混ざっていた。窓の外では野球部が泥だらけになって走っていて、グラウンドの向こうには、入道雲が馬鹿みたいに大きく膨らんでいた。僕はその景色を、三年間で何百回も見てきた。なのに、あの日の景色だけは、今でもひどく鮮明に覚えている。 「ねえ、黒瀬くん。もし明日、世界が終わるとしたら、何する?」 放課後の教室。誰もいなくなった教室で、僕の隣の席に座った女子が言った。彼女は机に頬杖をついて、窓の外を眺めていた。肩まで伸びた黒髪が、夕方の風に揺れている。白いカーディガンの袖から、細い指が少しだけ覗いていた。名前は、七瀬紬。僕が三年間、まともに話せなかった女子だった。成績は学年上位。先生からの信頼も厚く、誰とでも話せるくせに、どこか人との間に見えない壁を作っている。笑うと目尻が少し下がる。けれど、彼女が心の底から笑っているところを見た人は、案外少ないのかもしれない。僕は彼女のことを、ずっと綺麗な人だと思っていた。それは顔立ちの話だけじゃない。彼女は、誰も見ていないところで落ちているプリントを拾った。廊下で困っている一年生がいれば、当たり前みたいに声をかけた。友達の冗談に笑いながら、ふとした瞬間に、誰にも見られていないような寂しい顔をした。僕はその顔を見るたびに、どうしようもなく気になった。けれど、話しかける勇気はなかった。僕は彼女にとって、ただのクラスメートだったから。 「世界が終わる? 寝るかな」 「つまんな」 「じゃあ、何て答えたら正解なんだよ」 「好きな人に会いに行く、とか?」 心臓が、変な音を立てた。彼女はこちらを向いて、悪戯っぽく笑った。 「黒瀬くん、好きな人いる?」
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カテゴリー: 恋愛・青春
投稿日時: 2026/10/27 2:03
透
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