空蝉
溶けそうな、暑い夏だった。
家中みんながイライラしていた。変わらない戦況、手に入らない食料、苦しい生活。父さんが死んで、前みたいな暮らしが出来なくなった。母さんはうつ病になった。朝が来ても、明日のことについて思いを馳せていた、そんな時だった。
空から、蛍が降ってきたのは。
冷たい。暑い。痛い。そんな感覚が身体中を駆け巡っていた時、突然目が覚めた。ひやりと額に冷たいものを感じた。勢いよく体を起こしてみて、倒れていたことに初めて気づいた。軍服を着た若い男が、私を見つめていた。一瞬、父さんかと思った。父さんを最後に見たのはいつだっただろうか。
「まだ起き上がらない方がいい。急に動くと危ないよ」
冷たい、氷砂糖のような声だった。男は、また私を寝かせると、冷たい水に浸した布で顔を拭いた。父さんじゃない。その男はまだ、私とあまり年が変わらないように見えた。男は腰のあたりから何かを取り出すと、私の目の前に差し出した。「水だよ。まだ冷たい」そういえば、ずいぶん前から喉が渇いていた。恐る恐る受け取ると、キャップを外した。カーキ色の布袋に金属のキャップ。飲み口に唇をつけて、一口飲んだ。久しぶりに飲む水は、少し甘かった。「ゆっくり飲んでいいよ。君に全部あげるから」夏の日差しを背に、男は優しく笑った。向日葵が笑うとこんな風なんだとぼんやり思った。時間をかけてほとんど飲み干し、男を見た。「ありがとうございました。本当に……」安心したように細められた目が私を見つめ返した。「もう具合は大丈夫か?」「はい……」そうか、と頷いた男は立ち上がって辺りを見渡した。「ここは日差しが照っているから、別の場所に移動しようか」男が指差した方向に目を向けた。大きな木が影をつくり、穏やかな微風が吹いていた。「歩けるか?」「いえ、あの…私足が不自由なので歩けないんです」男は驚いたように私の足に目を向けた。それはそうだと、私は小さく息を吐き出した。
生まれつき、だった。だから足首は幼い子のように細いままだった。無邪気に走り回る弟が羨ましかった。歩くのはどんな感じなの?走るのは楽しい?弟は得意気になっていろんなことを教えてくれた。車椅子がなければ、私は生きていけないようなものだった。母さんは健康な体に産めなくて申し訳ないと悔やんでいた。そんなことないよと何度も言い聞かせるのが、日常だった。母さんは私のせいでうつ病が悪化したのかもしれない。そう思うとこの足や体が憎く思えて仕方がなかった。
蛍が落ちてきた時も、この足のせいで弟を庇うことさえできなかった。わずか数日前の出来事を思い出し顔を顰めている私に「ごめん、気が利かなかったな」そう言うと男は私を軽々と抱き上げた。動揺する私を横目に、男はすたすたと歩き出した。貧血のように頭がぐらぐらした。木の根元にそっと下ろされて、私は「ありがとうございます」とまた小さく頭を下げた。その反動でずきずきと痛み始めた胸を押さえたその瞬間、間の抜けた音がした。食料を口にしていない胃が限界を迎えた音だった。私は、照れたように笑うしかなかった。
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カテゴリー: 恋愛・青春
投稿日時: 2023/12/26 5:44
はれ
Thank you for reading.
I hope you enjoy reading my story.
「あの花が咲く丘で、君とまた出会えたら」を元に書いています。